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■第7章:海野さん登場(1)(9/15)
ある日、しばらく空きになっていた僕の正面のベッドに、新しいお客さんが入ってきた。閉め切ったカーテンの内側にずっとこもりきりで、ときどきうんうん唸っている。たまに看護師が来たときなど、つらそうに歪めた顔がカーテンの隙間から覗く程度で、どんな人物なのかは謎のベールに包まれていた。なにしろ、病室のだれかと言葉を交わしている姿さえ見たことがないのだ。
ところが二、三日もすると、彼は一転してばかに口数が多くなった。どうやら、それまで無口だったのは、単に口もきけないほど具合が悪かったからに過ぎないようだ。
「痛ぇ、痛ぇよ、チキショー。あの看護婦、なんであんな注射下手なんだよ、チッ、くそっ、何なんだよあいつはよう! イテテテテ……。なんとかしてくれよう!」
僕が彼から初めてはっきりと聞いた人語が、それだった。甲高い、耳障りな声だ。入口のプレートによると、彼の名は海野賢。ベッドに腰を降ろしたその姿はひどく小柄で、年齢は五十前後と思われるが、顔立ちは妙に幼い。「若い」と言うより「幼い」。小学生の頃からオッサンみたいな顔をしていて、実際にオッサンになってもその頃と顔がちっとも変わらない奴がときどきいるが、彼もきっとそういうタイプにちがいない。
「注射はうまい・ヘタがあるからねぇ。ははは、災難だったねぇ」
隣りの鷺沢さんがなだめるように相づちを打ち、仕事を終えて病室に入ってきたばかりの僕に水を向ける。
「手が腫れちゃったんだってさ」
「見てくれよ、これ! ほら、チッ、こんな腫れちゃってさあ!」
そう言って彼は、左の拳を僕に向けて差し出してみせた。丸っこい、ころころした感じのその手が、右手と比べて特に膨張しているようには見えなかったのだが、僕は調子を合わせて「そりゃ大変でしたね」と言っておいた。
こんな風に、この人はいつもなにかを罵っていて、そしていつもなにかを人のせいにしていた。
「糖尿に、高脂血症に、脂肪肝に……いっぱいあるなぁ」
処方された薬をうらめしそうに眺めながら、海野さんは言う。まさに成人病オンパレード。いったいどれだけ放恣な食生活をしてきたのだろう。
「あんたは、糖尿? 若いのに……。でもね、要は環境が悪いのよ。空気もそう、水もそう。そんな悪い環境の中で生きてちゃ、よくなりようがないって!」
糖尿病が空気感染するとか、汚染された水を飲んだことで血糖値が上がるとか、そんな話は聞いたこともないが、彼の頭の中では、成人病はこれすべて「環境の病」なのだ。悪いのは自分の生活習慣ではない。現代文明こそが諸悪の根源なのだ。
「それにさぁ、医者の言うとおりになんて、あんたできる? できないって! 飯食うのだって、仕事持ってりゃ外食になっちまうだろ? 量を少なめにって言うけどさ、ションベン横丁で飯食ってさ、残せるかよ。だって店のやつら、残すといやがるんだもん」
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