平山瑞穂
シュガーな俺



第1章:宣告(2)

 春先から、変だ変だとは思っていた。

 真夏でもないのに、やたらと喉が渇く。まず朝起きると、冷たい飲み物をコップにたっぷり一、二杯飲まないと人心地がつかない。出勤してからも、午前中に二本、午後に三〜四本、なにかしらのドリンクを自販機で買って飲み干し、帰宅してからもまた飲む。数えてみると、一日三リットル近く飲んでいる。トイレの回数が増えたのは飲む量に比例してのことだと解釈するにしても、こうとめどなく体が液体を欲しているのはどう考えても普通じゃない。

 あまり頻繁にドリンクを買い足しているのがきまり悪くなって、隣りの席の女子社員に「今日はこれでもう五本目だよ」などと自分からネタにしてごまかしたりしていた。

 やがて、不思議な現象が起きた。ダイエットしているわけでもないのに、ズボンが目に見えて緩くなっていったのだ。無類のアルコール好きである僕は、目立たないところ、つまり下腹部にこそ贅肉がつきやすいタイプだったので、最初はこの変化を歓迎した。理由はよくわからないものの、腹が自然に引き締まっていくわけだ。

 「たえず補給してる水分で、体の中の脂肪を洗い流してるんじゃないですか?」

 隣りの女子社員がそう言うのを真に受けて喜んだりもした。

 ただそれも、ベルトの穴が三つ分狭まる頃には、悪い冗談としか思えなくなった。よく見ると、腹まわりだけでなく全体に脂肪が落ちている。結婚してからついた肉で抜きにくくなってはめっぱなしにしていた左手薬指のマリッジリングが、いつのまにかゆるゆるになっている。もともと肉の薄い顔も、頬がこけて見るからにやつれ果てている。

 これはヤバい。

 最初のうちは単純に不思議がっていた妻の奈津も、ある時点で心配しはじめ、なにかの病気じゃないかどうか、『家庭医学大事典』で確かめてみるべきだと言った。もちろん、そんなことは僕だって何度も思いついた。でも、怖かったのだ。それがなにか「病的な」現象なのだということが日々否定しようもなくなっていく中、決定的な事実を知ってしまうことが。

 しかしある日、奈津は僕の目の前で『家庭医学大事典』を開き、「排尿回数が多い」「急にやせる」などの症状から、「考えられる病気」を探り当ててみせた。最も可能性が高いのは、「糖尿病」。嘘だろ、と思った。立花医師から指摘されたとおり、それはもっと、見るからに太った中高年以上の人がかかるものだと決めつけていたからだ。

 だから僕は、自分にむりやり言い聞かせた。これは違うんだ、と。たまたま、糖尿病の症状と酷似した現象が僕の体に起きているけれど、それにはなにか別の原因があるのだと。「倦怠感」は単に疲れているからで、「急激な体重の低下」はストレスのためで、「異常な喉の渇き」はきっと自律神経が失調気味だからなのだと。だいたい、糖尿ってのは摂取カロリーが高すぎてかかる病気のはずなのに、それが原因で痩せるってのはどういうわけなんだ? 理屈に合わない。

 そうやってあきらかな異状が見えないふりをする努力に明け暮れている僕に、奈津がときどき、直面したくない現実を突きつけた。

 「ねえ、病院でちゃんと検査受けた方がよくなくない?」

 「いや、どうせ会社の健康診断があるから、そこでわかるよ」

 「いつなの、それって?」

 「九月ごろかな」

 「遅すぎない? まだ五月だよ?」

 これと似たり寄ったりのやりとりを、何度繰り返しただろうか。

 奈津としては、本当はもっとしつこく僕の尻を叩きたかったところだろう。ただ彼女は超多忙な商社勤務、僕の二倍は働いていて、残業やら接待やらでろくに家に居着かなかったから、この件について話題に出す機会さえなかなかつかめずにいた。たまに隣りのベッドから、眠そうな声でぽつりと言うのが関の山だった。

 それでも僕は、内心自分でもまずいまずいと思っているだけに、妻のこうした忠告を煩わしく感じた。しまいには不機嫌になってしまうので、奈津もそこそこで切り上げるほかない。でも本当はもっとずっと早く、彼女の言うとおりにすべきだったのだ。ずるずると先延ばしにしている間に、病状はどんどん悪化していた。

 糖尿病は一般に、初期には自覚症状がほとんどないことから恐れられている病気らしい。逆に言えば、僕のようにはっきりと自覚できる症状が出たときには、すでに相当進行してしまっているのだ。

 結局、検査を受けたいと都立新宿病院に電話をしたのは、八月に入ってからだった。一ヶ月待てば健康診断があったが、なんとなく、その一ヶ月が文字通りの命取りになるような悪い予感がしたのだ。紹介状もなかったので、予約でいっぱいとの理由で丸一週間待たされた。その日が、ペルーに向けて奈津が出発する日と重なったのは、単なる偶然だ。

 当日、荷造りの最終チェックをしている奈津を尻目に会社へ向かいながら、僕は複雑な思いで今後の展開に思いを馳せていた。最悪の結果を知らされたとしても、どうせ翌週の水曜までは彼女にそれを報告せずに済む。その意味では、少しだけ時間稼ぎができる。その一方で、聞かされる結果を当面一人で胸に抱えていなければならないことが、ひどく心細くもあった。

 そして聞かされた結果は、「最悪」だった。

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