
「あのときは正直、私もどうしようかと思いましたけど」
「その、寝ちゃう直前ってどんな感じだったの?」
「なんか、しゃべってましたよ。私も酔っぱらってたからあんまり覚えてないけど、だんだん話のつながりがデタラメになっていって、そのうち急に無口になって、ある瞬間、カクンって……」
言われても、もちろん思い出せない。そして今日も、そうなる可能性は大だ。ただ今日は、亜梨沙が「片瀬さんがグデングデンになって意識を失っても、責任を持って駅の改札までは送り届けてさしあげます」と請け合ってくれている。相手は九つも下の女の子、しかも飲むほどにテンションが上がってくる亜梨沙だ。心もとない話だが、彼女以上に心もとない僕がどうこう言えた義理はない。
しかし、そんな彼女と飲む機会も、これが最後になってしまうのかもしれない。それを思うと、さびしくてたまらなくなる。
ソリの合う飲み仲間を見つけるのは、なかなか難しいことだ。自分にとって最高の飲み仲間が、自分の伴侶と一致するわけでは必ずしもない。そしてそういう相手が、いつでも自分の交遊圏に都合よく転がっているわけではない。
僕の場合、一人で飲むということはほとんどない。一緒に飲んでくれる話し相手がいなければ、酒を飲む楽しみも半減してしまう。そしてともに飲むならば、結局サシが一番いいと僕は思っている。居合わせる人数が少なければ少ないほど話題も自由に選べるし、薄められていないその人らしさがより遺憾なく発揮されるからだ。
さらに言うなら、どういうわけか僕は、その相手に異性を選ぶことが多かった。いや、自分がいかにモテるかなんてことを自慢するつもりはさらさらない。誤解されやすいことはよくわかっているが、それとはまったく別のことなのだ。僕自身がけっこう女性的な性格であることも関係しているのかもしれないが、本質的に相手が女性の方がくつろいでいられるのだ。
一方亜梨沙は、本当に「仲がいい」のかどうかが微妙な同年代の女同士でぞろぞろと連れ立って、「スイーツのおいしい店」に行ったりする習慣を、ほとんど憎悪しているようだ。それよりは、よけいな気をつかわずに済む相手と小人数で「ガッツリ飲む」方を好む。その相手が同性か異性かは問わない。もちろん、妻帯者であるかどうかも無関係だ。楽しく飲めればいいのだ。より多く飲めれば、もっといい。
ただ、異性の場合、「二人で飲む」という場を別の展開への前段階であると誤解して、必要以上に接近してきたりする男は、即アウトだ。彼氏もちゃんといるし、彼女が欲しているのはあくまで「ソリの合う飲み仲間」なのだから。
そういう意味で、かなりいける口である上に、何度一緒に飲んだくれようが妙な勘違いをする可能性がまったくない僕は、またとない「貴重な存在」であると亜梨沙自身が言っている。僕と飲んでいるかぎり、亜梨沙も「ほかの人のペースを見て、三杯行けるところを一杯でガマン」したり、「女だてらにハイペースでバカ飲みしている姿を見てドン引き」されたりする心配がない。
そうしておたがいの需要と供給がぴったり合ったところに成り立っていた亜梨沙との関係が、「酒」という要素を除くことによって魅力を失い、瓦解してしまうことを僕は懸念していたのだ。
そんな僕の思いを知ってか知らずか、亜梨沙はいつもどおりによく飲み、よく笑い、気に食わない同僚を罵っている。このテーブルから仮にビールのジョッキが消えてなくなったとして、それでも亜梨沙は僕に対して、今と同じように楽しげにふるまってくれるのだろうか。
僕はそんな彼女をテストするような気持ちで、カバンの中から分厚いコピー用紙の束を取り出した。
束は、僕自身が書いた小説の原稿だ。
社会人になって十年以上が過ぎたが、僕はその間、ほとんど休む間もなく小説を書きつづけている。もちろん、プロの作家になりたいからだ。各新人文学賞への応募もしつづけてきた。十年は長いが、ときどき予選を通過して文芸誌に名前が載ったりするので、なかなかあきらめられないのだ。
書き上げた作品は可能な限り周囲の人たちに読んでもらって、感想を次作にフィードバックさせるようにもしている。僕が書く小説を毎回楽しみにして、その都度、詳しい感想を言ってくれる女友達もいる。ただ、亜梨沙とは、そういう部分でつながっているわけではない。実際、これまでは、自分が「書いている」という事実すら、彼女には教えたことがなかった。
しかし、今後、亜梨沙との間をつなぐ最大の媒介項であった「酒」が消滅してしまうとすると、それに代わるなにかがなければいけない。亜梨沙は本を好んで読むようなタイプには見えないが、ときどきやたらと古風な言い回しを使ったりするし、ひょっとして、見かけによらず隠れた読書家だった、なんてこともあるのではないか。そうすれば、今後も僕は「そういう部分でのつながり」によって、亜梨沙との良好な関係を持続できるのではないか。
そんなほのかな期待を胸に、僕は僕自身の小説作品を差し出してみせたのだ。
「あのさ、唐突だけど、実は僕、小説を書いていてね、これ、わりと最近書き上げたやつなんだけど、よかったらちょっと読んでみてもらえるかな」
「え、あ、そうなんですか? へぇ、小説なんて書いてたんですか。……『イジリ写真館』? なんですかこれ、写真館のオヤジが痴漢する話かなんか?」
タイトルを見ながら、亜梨沙はそんなことを言っている。もちろん、そんな話ではない。
井尻という名の、ある家族についての物語だ。中年になってから、脱サラして写真館を開く父親。カメラマンになりたいという少年時代の夢が、形を変えて再燃したのだ。彼の夢を支える、少女のような母親と、その下の三人の子供。その家族の年代記が、次男の視点で語られてゆく。
やがて長男は父親に反発して家を飛び出し、海外ボランティアに明け暮れる。あげく東南アジアの反政府ゲリラに義勇兵として参加し、凶弾に散る。長男の死を境に、家の中が少しずつ壊れてゆく。母親は難病で命を失い、長女は家出同然の形で家を離れる。父親は次第に正気を失い、写真館も借金の抵当に取られてしまう。次男がただ一人、家を守ろうと絶望的な闘いの中に身を投じてゆく。そんな話だ。これでもかとばかりに悲惨なストーリー展開だが、ハッピーエンドばかりが「いい話」なわけじゃない。
「うわ、けっこう長いですね。こういうのって、どこかに応募したりとかするんですか?」
「それはどこにも出してないな。いや、以前は書けば必ずどこかに応募してたんだけど、最近はちょっとね……」
ここ数年、作品を積極的に応募することがなくなっているのは事実だった。ときどき予選を通るとは言っても、どれも一次予選止まり、選考委員の目に触れる前の「粗選り」の段階で敗退、というやつだし、その一次予選さえ、通過することが稀になりつつある。いいかげん、ちょっといやけがさしはじめている、というのが正直なところだった。
ただ、そんな経緯を亜梨沙に向かってくどくどと述べるのもどうかと思ったし、実際、亜梨沙もそれ以上突っ込んで訊いてくることはなかった。
「わかりました。私は普段本なんてほとんど読まない人間ですが、それでもよければありがたく拝読させていただきとうございます」
亜梨沙はただそう言って、原稿の束を大げさに頭上に押し戴いてからさっさとカバンの中にしまい、次の瞬間にはもう別の話題に転じていた。
やっぱり、この子に「そういう部分」を期待するのは無理があるかな……。
きっとあの原稿は、彼女のマガジンラックの隅にでも突っ込まれたまま、何年もただ埃をかぶるだけで終わることになるのだろう。僕はもうそのことについて考えるのをやめて、ビールの風味を味わい尽くす方に神経を集中することにした。
やがて「ザ・ストレーツ」がステージに上がり、一回目のステージが始まった。一曲目はいつものとおり、口ひげのバンマスが歌う「ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフ」、ゆるやかな導入というやつだ。そして軽い挨拶の後、今日の女性ボーカルを担当するシンガーの「マイちゃん」が紹介された。女性シンガーはゲスト扱いでときどき違っているが、バンマスの好みなのか、たいていはちょっとハスキーで芯の太い声なので、ソウル系の曲を歌っても違和感がない。「マイちゃん」が歌う初っぱなは、スリー・ディグリーズの「天使のささやき」だ。
その頃には、僕たちのテーブルにはジョニ黒のボトルと水割り用のセットが並んでいた。八月末が使用期限のボトルサービスハガキをちゃんと持参してきていたのだ。二人とも無類のウイスキー好きなので、ボトルの減りは早い。最初は気をつけて水割りにしているが、そのうち氷は足しても水は足さなくなり、事実上、ロック状態で延々と飲みつづけることになる。酔いは、予想を超えたペースで全身を駆けめぐりはじめていた。特に僕の方は。
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