平山瑞穂
シュガーな俺



第2章:最後の晩餐(2)

 昼間、課長と部長には入院のことを報告した。入院と言っても仕事にはそれほど支障が出ない形態とわかったので、その点はあっさり納得してくれたが、それ以前にまず、僕が糖尿病になったという事実自体に二人とも驚いていた。それはそうだろう、本人が一番驚いていたのだから。

 「そんな体型には見えないけどねえ。どっちかっていうと痩せ型でしょ? いや、私の叔母がやっぱりそうでね、でも叔母は風船みたいな体型だったからさぁ」

 部長が首を傾げながら言った。

 「片瀬君は、その、けっこう暴飲暴食とかする方なの?」

 「そうですね、実は、酒はかなり……。で、普段はそれほど食べないんですけど、酒が入るとけっこう暴食しちゃうんですよ。そういう意味では、思い当たる節はありますね」

 「思い当たる節」は、実は彼らに話した以上にあった。

 共働きで子供のないわが家での家事は原則として完全分担制で、めいめいが自分にとって比較的負担が少ないと感じる仕事を受け持っていた。それがうまい具合に分かれたので、なんら衝突はなかった。僕はわりと「片づける」のが好きなので、掃除や洗いもの、ゴミ出し(ちゃんと分別する)などは僕の担当、逆に「片づける」のが大嫌いな妻の奈津は、料理と洗濯と家計管理一般。おおむねそんな職掌分担によって、片瀬家は運営されていた。

 ただ、三十歳の奈津が勤務する商社・トーショーで(いまだ平社員である僕を差し置いて)主任に昇格してからは、多少、その秩序に乱調が生じはじめた。わりと体質の古い会社であるにもかかわらず、女の奈津に主任の役職を与えたことからもわかるとおり、トーショーは奈津に期待して重責を負わせるようになっていたのだ。残業がかさみ、紙パルプの買いつけに中国や東南アジアへ出張して何日も家を空けることもザラで、早めに帰宅して二人分の食事を用意するなど望むべくもなかった。

 だからといって、ろくに料理を作った経験もない僕が突然役割を交代できるわけもない。面倒でつい、「食事はめいめいで」ということにしてしまう。で、どうせ外食だし、奈津も帰りは遅いのだから、だれかと飲みの約束を入れようとしてしまう。以前は、肝臓のためにも外で飲むのは週イチ程度に収めていたのに、それがなしくずしに週に二回、三回、ときにはほぼ連日、と格段に増えてきていた。

 年明けあたりからそうだったから、その間どれだけアルコール漬けの高カロリー生活をしていたか、ちょっと想像するのもげんなりするほどだったのだ。

 そう考えると、完全に自業自得だ。「日頃の不摂生が祟った」。ただそれだけのことでしかない。それはよくわかっているつもりだが、それにしてもむごすぎる。僕が知るかぎり、糖尿病の人というのは、いつもいつも食べる量を制限して血糖値を気にしていなければならないようだ。当然、僕もそうなるのだろう。今後は厳密に「週イチ」ペースを守るから、それは神かけて誓うから、そのかわり、今回のことは「なかったこと」にしてもらうわけにいかないのか。
  
 今日はすべてを忘れようと思ってここに来たのに、ふと気が緩むとそんなことを考えている。忘れろ、忘れろ。頭にからみついてくる憂鬱な思いを振り払うように、僕は杯を重ねた。もう、何杯飲んだのかもわからない。ボトルの残りがもうわずかになっているような気がするが、それを確認するだけの知能もなくなっている。気がついたら、亜梨沙と一緒にフロアに出て「ダンシング・クイーン」に合わせて体を揺らしているが、これはいったい何回目のステージなんだろう?

 ザ・ストレーツは、それに続けて畳みかけるようにドナ・サマーの「ホット・スタッフ」を演奏しはじめる。イントロが流れ出すと、マイちゃんは人差し指をまっすぐ前に突き出し、ゆっくりとスライドさせて会場全体を指差す。何年か前にオンエアされていたコカコーラのCMで、その曲をバックにHITOMIがやっていたとおりの仕草だ。なんという心憎い演出。酔っぱらってアホになっている観客は、集団催眠にでもかかったかのように全員が同じポーズを取る。もちろん、僕も亜梨沙もそれをやった。

 その次は何だったろう? たぶん、「君の瞳に恋してる」だ。フランキー・ヴァリのオリジナルではなくて、ボーイズ・タウン・ギャングがカバーして日本で大ブレイクした方のやつ。このへんになると、フロアに出ている人間はみんなもうほとんど正気を失っている。「愚民」という感じだ。

 間奏の部分が来ると、ヒゲのバンマスの「そーれ!」というかけ声とともに、おそらくこの店で自然発生的に定例化したものと思われる振りつけを、全員がファシストの集団のように一斉にかます。ただ単に、人差し指を突き立てた右手と左手を交互に突き上げるだけ。それこそサルでもできる単純な振りつけだ。♪チャーラッ、チャーラッ、チャーララッチャッチャ、チャーラッ、チャーラッ、フゥ〜ッ! もちろん、僕も亜梨沙もそれをやった。

 そのあたりから、僕の記憶はあからさまに怪しくなる。どうも、「イエスタデイ・ワンス・モア」でチークタイムに突入したのにかこつけて、手近にいる亜梨沙を抱きしめて号泣していたような気もするが、正直な話、よく覚えていない。

 「ほら、片瀬さん、立って! 帰るよ! 終電間に合わなくなっちゃうから!」

 荒っぽくそう命じる亜梨沙に強引に腕を引っ張り上げられているのが、その次に残っている記憶だ。会計をどうしたのかさえまったく覚えていない中、奇跡に近いことだと思うのだが、僕は自分がメガネをかけていないことにだけは気づいていた。たぶん、テーブルに突っ伏してしばらく昏睡してしまい、そのとき無意識に外してしまったのだろう。

 しかし、「待って、メガネが……」と訴えている僕に、亜梨沙はやけに冷淡だった。「いいから! そんなの後で取りにくればいいから!」。そう言いながら、ひたすら僕を出口へ向かって引っ張っていくのだ。

 エレベーターの前で膝を崩して座り込んでしまったところまでは覚えている。それを最後に、僕の記憶はぷっつりと途絶える。

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