平山瑞穂
シュガーな俺



第4章:入院(1)

 受話器の向こうで、母は一瞬、絶句した。あまり動揺を表に出さないせいで時に冷淡すぎる人と誤解されがちな母にしては、めずらしくわかりやすいリアクションだった。「悪い知らせなんだけど」という前置きを聞いたときに思い浮かべたあらゆる「悪い事態」に、「息子が糖尿病になった」というバリエーションが含まれていなかったのは確実だ。

 両親は健在だが、なまじ家が一時間程度で行ける距離なのでかえって足が遠のいてしまい、めったに帰省することもないし、特別な用事でもなければ電話もしない。たまに連絡してきた息子の用件が「糖尿で入院することになった」では、さぞや脱力感も甚だしいだろう。

 「不思議ねえ、喬一は痩せ形だし、私の家系にもお父さんの家系にもそんな人一人もいないのに……」

 母はそうやって僕自身が不思議に思ったポイントをひとしきり忠実になぞった上で、さも同情に堪えないといった口調でこう言った。

 「でもあれが大変よ、食事が! ほとんど食べられないって言うじゃない? 倉持さんの旦那さんもほら、何年か前、糖尿になっちゃって、そしたらもう、外ではおそばくらいしか食べられなくてすごく不便だって」
 
 ここ数日の独学ですでに食事療法の基礎を理解しつつある僕は、それを聞いて微妙にこめかみをヒクヒクさせた。おそばくらいしか? 「しか」とは、何を基準に言っているのか。そばだって量が過ぎればカロリーオーバーだし、逆にロースカツ定食だって適正な量であれば食べられないことはないのだ。

 ただ、そんなことで目くじらを立ててもしかたがないし、実際、外食で理想的な食事療法を貫徹しようとするのがきわめて困難であることは事実だ。一般に量が多すぎる上に、野菜がほとんど摂れない。毎回の食事に、「合計約百グラム(火を通さない状態で測って)の野菜をいろいろ取り混ぜて」取り入れろと本には書いてあるが、そんな食事、街の定食屋では望むべくもない。さすがに弁当を作る余裕までは時間的にも気力的にもなく、月曜・火曜と昼だけは外食に頼っていた僕には、そのことが身に沁みてよくわかっていた。

 「とにかく、詳しいことがわかったらまた電話するから」

 報告もそこそこに電話を切り上げると、僕は夕食で汚れた皿を洗いはじめた。今日も会社から帰宅後に自炊したのだ。『糖尿病の食事』のレシピを見ながら。朝もいつもより早く起きて、自分で「適正な量の」食事を用意する。自分で作って、自分で食べて、自分で片づける。その都度カロリー量を計算しながら。洗いものを終えると、明日の朝食用に百グラム程度の生野菜を切っておく。起きてから全部やるのではあまりに慌ただしいからだ。

 すべて終わって手を拭ったときには、十時を過ぎていた。どっと疲れが出る。紅茶(当然、砂糖・ミルク抜き)でもいれてひと休みしようと思ったとき、ふと、キッチンカウンターの籠の中に、ブルボンの「ルマンド」を見つけた。だいぶ前に買ったやつの残りで、ここ数ヶ月なんとなく放置されていたものだ。甘いものが無性に恋しくて、それが目に留まった瞬間、がまんできなくなった。

 ここ数日、単身でここまで頑張ったんだから、これひとつくらいいいだろう。僕は自分への褒美のつもりでその包装を開け、カウンターの前で立ったまま口に入れた。うまい。死ぬほどうまい。それほど好きな菓子ではなかったはずなのに、甘みが口の中に広がっていくと、気が遠くなるほどの快感が全身を駆けめぐる。菓子ってこんなにうまいものだったのか!

 舌の上で広がるその甘みが、これまでの人生で食べたたくさんの「甘いもの」を思い出させる。その中には、奈津がたまに気が向くと作る菓子も含まれている。最近は仕事があまりに忙しくてとんとご無沙汰になっているが、僕は奈津が焼いてくれるバナナケーキが大好きだった。最後にあれを食べたのはいつだっただろうか。そしてこれからは、あれももう食べられなくなるのだろうか。

 そう思ったとき、僕はたまらない気持ちになって、その場にくずおれて泣き出してしまった。三十男が。妻の焼いたバナナケーキが食べられない悲しさに。

 張りつめていた神経が、甘みの効果で解きほぐされ、不意に感情のコントロールができなくなってしまったのだろう。しかしひとしきり声を上げて泣くと、気持ちがすっきりしていた。ふと気づくと、飼い猫のみけ松がすぐそばにちょこんと座って、無心に僕を見上げている。

 「頑張るから。頑張るからさ。見守っていてよ」

 僕を見舞った運命のことなど永遠に理解できないであろうみけ松に向かって僕は誓いを立て、その小さな額に頬をすりつけた。みけ松はいやがって身をよじり、離せと抗議した。

 翌日の夜、奈津が帰ってきた。マチュピチュの遺跡を堪能して上機嫌だ。僕はしばらく、「悪い知らせ」についてはひとことも触れずに、彼女のみやげ話に笑顔で相づちを打った。せっかくの高揚した楽しい気分に水を差すには忍びなく、どこで口火を切ろうかと迷っていたら、きっかけはおみやげの中に見つかった。極彩色を使った伝統的な手織りの小さな袋に入ったチョコレート。僕はそれを受け取って礼を言いながら、続けてこう言った。

 「でも、ごめん、これ、食べられないかもしれない……」

 僕が診断結果を述べると、奈津もやはり、一瞬言葉をなくした。ただ、もともと病院に行くことを勧めていたのは奈津だ。いっとき浮かべた暗い顔も、「やっぱり……」という気持ちを表すものだった。

 「ごめんね、私の方の楽しい話ばっかりしちゃって。一人で抱え込んでてつらかったでしょう。入院までしなくちゃならないなんて」

 「でも、入院中はある意味、楽でいいんだよ。食事は全部用意してくれるわけだから。退院してからが大変なんだ。僕もここ数日、勉強はしてみたんだけど……」

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