
ナースセンターの一角にテーブルと椅子が並べられていて、すでに何人かの患者が血糖測定をしている。ここは内科病棟なので、患者たちの入院理由はまちまちだ。肝臓病の人もいれば、腎臓病の人もいる。しかし血糖測定が必要なのは糖尿病なので、今ここにいるのは同病の人たちということになる。
「九十六です」
「はい、桑原誠さん、九十六」
患者が読み上げた血糖値を、看護師が復唱して帳簿につける。テーブルの上には、何やら恐ろしげな針のようなものをたくさん入れた箱が並べてある。僕はちょっと気後れしながら、言われるまま丸椅子に腰かけて指示を待った。
「これから血糖値を測って、インスリンを打っていただきます。この作業は今後一日三回、食事の三十分ほど前に毎回、ご自分でやっていただくことになりますので、やり方をよく覚えてくださいね」
インスリンにもいろいろ種類があり、一日に打つ回数も処方によって異なるのだが、僕の場合は毎食前に各一回ずつ打つ即効性タイプのインスリンが処方されている。そしてそれを打つ前に、必ず血糖値を測らなければならない。食前血糖値がいくつであるかによって、注射するインスリンの量も変わってくるからだ。
血糖測定は、手のひらサイズの小さな測定器を使って行なう。これは、最初に立花医師の診察を受けたときすでに経験済みだった。ただそのときは、立花医師が僕の手を取ってやってくれたので、なんとなく、その後も医師か看護師がやってくれるものと思い込んでいたのだが、そうではなく、自分でやらなければならないのだ。
血糖を測るためには、まず血を出さなければならない。たとえば、肌に当てるだけで正確な値を測定できるような器具があればいいと思う。もしそういう技術を開発できれば「医療界のビル・ゲイツになれますよ」と立花医師も力説している。しかし現実には、今のところそんな技術はない。だから、実際にその都度、血そのものを出す必要があるのだ。
手順としては、まず「穿孔器」といわれるペン状の器具に、使い捨ての針をセットする。その一方で、測定器にやはり使い捨ての電極チップを差し込む。この測定器は、電極を挿入することによって電源がオンになる仕組みだが、そのまま放置しておくとやがて自動的に電源が落ちてしまうので、この後の工程はできるだけすみやかに行なう必要がある。
穿孔機の先を指先に当ててボタンを押すと、中からバネ仕掛けの針が一瞬だけ飛び出して、皮膚に小さな穴を穿つ。これがけっこう痛い。穴が開いたら、その周囲を軽く押して、血を絞り出す。米粒大になるくらいまで出さないと、正確な測定ができない。その血の粒に測定器の先の電極を当てると、毛細管現象によって血が中に吸い上げられてゆく。そのまま三十秒待つと、測定器のディスプレイに数字が表示される。それが、その時点での血糖値だ。
次はいよいよ、インスリン注射だ。注射と言っても、バイアル瓶からその都度薬液を吸わせた注射器を使うわけではない。専用の注射器はキャップがついていて、一見したところペンかマーカーにしか見えないし、針だけ毎回つけ替えれば何十回も使えるだけの量が入っている。根元の部分にダイアル式の目盛りがついていて、必要な分だけ回してから親指で尻の部分を押し込むと、針の先から目盛りで指定した分だけ放出されるという仕組みだ。
食事療法で言うところの「単位」(八十キロカロリー)と言い方が同じなので紛らわしいが、インスリンもまた、一ミリグラムを「一単位」と呼ぶ習慣があり、一本の注射器には三百単位(つまり三百ミリグラム)入っている。僕が一度に打つ量は四単位から八単位程度なので、一本使い切るにはけっこう日数がかかる。
これに使い捨ての針をセットすると、まず目盛りを「2」に合わせ、天に向けて試し打ちをする。気泡の混入を裂けるためと、万が一針か注射器に問題があって必要な量が出ないといったアクシデントを避けるためだ。問題がないようなら、あらためて処方に合わせてダイヤルをセットする。
針を刺す位置は、意外なことに下腹部だ。「注射を打つ」と言うと、なぜか無条件に上腕部に針を刺し込んでいる図が頭に浮かんでしまうが、インスリンの場合は一般的に、へその周囲なのである。皮下脂肪があるので吸収しやすいし、比較的痛点の少ない部位だから、というのがその理由らしい。実際、おっかなびっくり針を刺してみたが、ほとんど痛みを感じない。穿孔機で指に穴を開けるときの方がよっぽど痛い。
ただ、毎日のことだから、いつも同じところに打っているとやがて皮膚が硬化してくる。なるべく少しずつ位置を変えてローテーションしていくように、と言われた。穿孔機で穴を開ける指もしかりだ。人差し指から小指まで、毎回替えていくのがいいと言う。
作業は以上だが、これらの工程ひとつひとつに、感染を防止するためのこまごまとした手間が伴う。指や下腹部をアルコール綿で消毒するのはもちろん、使用済みの針や電極を医療廃棄物としてしかるべく処分するなど、なかなか煩雑だ。慣れないうちは、これだけで優に七、八分はかかる。毎食前にこれか、と思って、ちょっとげんなりしてしまった。
入院して初めて測定した血糖値は、二百八十五。打ったインスリンは八単位だった。これが下腹部の皮下脂肪から体に染みわたって、高すぎる血糖値を下げていくのだろうか。この、無色透明の頼りなげな液体が?
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