平山瑞穂
シュガーな俺



第5章:血を絞り出す(2)

 ところが、そのちょっとアイドル顔の若い看護師は、パソコンを目に留めても平然としているどころか、「あ、この機種、私が最近買った奴とおんなじですよー」などと雑談を持ちかけている。

 おいおい、注意しろよ!

 「いやあ、僕もね、仕事でエクセルとか使うんだけどまだぜんぜん慣れてなくて。この機会に勉強しようかと思ってね」

 「そうですかー。私もまだ買ったばかりで、メールの設定もしてないんですけど」

 「あ、じゃあ設定したらアドレス教えてください」

 「そうですかー」

 彼女は結局、彼があからさまな「電子機器の持ち込み」をしている点についてはなんら異議を唱えることなく、用事だけ済ませたらさっさと立ち去ってしまった。それを見ていると、馬鹿正直に相談した分、僕の方が逆に割を食ったのではないかという気になってくる。

 「いいとは言えません」という大崎さんの言葉は、よくよく考えてみると意味深長だ。正面切って「いいですか?」と訊かれたら、立場上「いいとは言えない」が、黙ってやる分には「見なかったことにする」。あれはもしかして、そういう含みのある言い方だったのではあるまいか?

 なんだか釈然としない思いだが、その看護師についてひとつだけ感心した点がある。「アドレス教えてください」と言われて、「そうですね」と答えなかった点だ。「そうですかー」では、問答が成立していない。たしかに、患者からのああいう誘いかけにいちいち応じていたら身が持たないだろう。

 暇を持て余した僕は、エレベーターで一階に降りてみることにした。病院内をうろつく分には自由なので、別に何も言われない。一階には売店があって、新聞・雑誌、お茶やお菓子から、ちょっとした生活雑貨までたいていのものが揃っている。どちらかと言うと入院患者のための店なのだろう。僕はそこで、大崎さんの忠告どおり、ロッカーに取りつけるための南京錠を買って、さらに通路を進んだ。
 
 外来のための広い待合室の向こうに、大きなタバコのマークがある。喫煙室だ。一瞬誘惑に駆られるが、振り切って窓の外を見ると、何人かの患者が外に出ている。患者だとわかるのは、全員、僕と同じくスエットの上下などそのままベッドに寝られるような恰好をしているからだ。中には、点滴架台つきの歩行器に寄りかかっている人もいる。僕も出てみることにした。

 出入り口である自動ドアの手前にはいかつい恰好をした警備員が立っているが、僕がその脇を通り過ぎて行っても何も言わない。厳密にはこれも「外出」に当たるはずだが、ちょっと外の空気に当たる程度なら大目に見られているらしい。そして、めいめいタバコを吸ったり携帯電話でメールを打ったりしている患者たちと並んで植え込みに腰かけたとき、僕ははたと気づいた。

 そうか、これがあれだったんだ!

 すぐ隣りに勤務先がある僕は、仕事帰りなどにはちょくちょくこの病院の脇を通りかかっていた。そんなとき、病院の外に出て亡者の群れのように並んでいる覇気のない寝間着姿の人々を見かけることがときどきあって、彼らはいったい何をしているんだろうと不思議に思っていたのだ。今、逆に自分が、健常者である通行人からそのように不審に「見られる」側に回ってしまったのだと思い至り、えも言われぬ不思議な気持ちになった。

 そんな風にして長い午後をどうにか乗り切り、午後五時十五分にはまたナースセンターで血糖測定とインスリン注射をした。血糖値は百二十。なるほど、昼に打った分はてきめんな効果を示したようだ。夕食は六時で比較的早いが、ろくに体を動かしてもいないのにやはり相当な空腹感がある。この量に慣れていかなければならないのだ。

 消灯は午後十時だが、その時間に馬鹿正直に蒲団をかぶって寝てしまう患者はほとんどいない。部屋の灯りは落とされてしまうが、ベッドサイドのランプをつけている分には咎められないようだ。もともと「枕が変わると眠られない」体質の僕はそうして長いこと本を読んでいたが、十二時過ぎに看護師が見回りに来て、「そろそろ寝てください」と注意された。
 
 僕はおとなしく本を閉じてランプを消し、目を閉じたが、なかなか寝つけなかった。慣れないシチュエーションということもあるが、部屋のどこかから途切れ途切れに聞こえる低い唸り声が気になってしかたがないのだ。どこかが痛いのか、それともそういう癖があるのか、うう……うう……といつまでも続いている。そうかと思えば、別の病室から断末魔の叫びみたいなものもときどき聞こえる。

 「ぐっ、ぐおっ、おごっ、うがあぁぁうっ、ペッ!」

 最後に「ペッ!」とついているところを見ると、喉にからんだ痰を吐き出している音らしい。それにしても激しい音だ。病棟中に響き渡っている。みんなあれでよく眠られるものだと思う。

 僕は片耳を枕に押し当てて、聞こえない、聞こえない、と自分に言い聞かせながら、瞼に眠りが訪れるのを辛抱強く待ちつづけた。

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