平山瑞穂
シュガーな俺



第6章:充実生活(1)

 「あ、こないだ、あの後大丈夫でした?」

 日中、会社の廊下ですれ違ったときに、東野亜梨沙に呼び止められた。フロアも違うので、“飲み納め”の晩以来、顔を合わせるのは初めてだ。一応「入院中」なのに、飲み友達とこうして普通に言葉を交わしたりするのは妙な気持ちがする。

 「いやぁ、かろうじて一命は取り留めたって感じかな。なんか、地元の駅前でホームレスみたいに丸くなって寝てたよ」

 「やっぱり……。案じておりました。約束どおり、改札まではどうにかお送りしてさしあげたものの」

 その部分は、まったく記憶にない。亜梨沙によれば、十二時を過ぎたあたりで僕は予告もなくテーブルに突っ伏して眠り込んでしまい、それを強引に引きずり起こして駅まで連行したのだという。「メガネが、メガネが……」という僕の訴えは、「心を鬼にして」却下した。今、席に戻ったら、また座り込んでしまって間違いなく終電を逃すと思ったからだ。

 「私も相当酔っぱらってましたからね、これは自分もヤバいと思って」

 「でも、なにもそうまでして終電にこだわらなくても……」

 「それじゃだめなんですよ、片瀬さん。歯止めがなくなっちゃうでしょ? こんな大酒飲みの私が今までたいしたトラブルに巻き込まれることもなく一応無事に生きてこられたのは、“終電で帰る”っていう鉄の掟を守ってきたからなんです!」

 「なるほど、自分ルールってやつだね?」

 「そう、自分ルール。これ、大事ですよ、片瀬さん」

 言われてみれば、亜梨沙と飲んでいて終電を逃したことは、意外なことに今まで一度もない。一見破天荒に見える亜梨沙も、そんな形で自分を律していたわけだ。僕はあらためて、面目なさに首をすくめた。

 「ところでその後、片瀬さん、銀行のところで大の字になっちゃったの、覚えてないですか?」

 「いや……まったく記憶なし。でもそうか、だから頭にコブが……」
 
 「あ、そのときのですよ、きっと。“ゴチン”って派手な音がしたので。ただですね、あのときの片瀬さんは、“倒れた”って言うより、“ここで寝よう”っていう明瞭な意志を持ってましたよ。“だめですよ、こんなとこで寝ちゃ”って私が言うと、“いいからいいから”って。何が“いい”んだ!」

 亜梨沙はそう言って笑った。

 「それでですね、横になった後の片瀬さんは、“もう思い残すことはない”と言わんばかりの満ち足りた顔をしておられました。安らかな笑顔でございました……」

 メガネはその後“ブルータス”から無事に回収したが、もうあの店に行って踊り狂うこともたぶんないのだろう。それを思うと一抹の寂しさはあったが、それはすでに僕の中で「思い出」みたいなものになりかかっていた。たしかにあのとき僕は、「燃え尽きた」のだ。矢吹丈みたいに真っ白な灰になって。

 実際のところ、病棟内にいるかぎり、酒は飲みたくても飲めないし、好きとは言っても飲まなければ落ち着かないほど「依存」しているわけでもなかったので、思ったほど口寂しさは感じなかった。少なめの食事にも次第に慣れて、空腹感に悩まされることもなくなった。それでも食事は病室内におけるほとんど唯一の楽しみだったので、毎回、配膳の時間が待ち遠しかった。

 そしてそれは、想像していたほど味気ないものではなかったのだが、悩みの種があるとすれば、塩味の淡さだった。糖尿病患者に出される食事の塩気が少ないのは、喫煙を禁じられるのと似た理由によるものだ。つまり、それ自体が糖尿病を悪化させるわけではないが、腎臓病などの「合併症」が恐れられているわけだ。しかしなにかにつけ味が濃い外食に慣れた舌には、いささか酷だ。

 たとえば、「カボチャの水煮」と名づけられた料理を食べてみると、本当にただ「水で煮た」だけで、塩をいっさい加えていないのではないかと疑われるほど塩味が遠い。たまにきつねうどんなどが出てくるのはアクセントになっていいが、つゆがただのだし汁に思える。茹で豚用の小さなしょうゆパックの中身を炒り卵などにも割り当て、自分で工夫して味の調整を図らなければならないこともある。
 
 また、ほとんど毎回、和食というのもちょっとつらかった。病棟の年齢層が比較的高いことに対する配慮だったのだろうか。和食も嫌いではないが、十食もつれが続くといいかげんうんざりしてくる。だからごく稀に洋食が出ると、無性に嬉しかった。学校給食みたいな特にうまくもないロールパンに、甘味料で作ったイチゴジャムを嬉々としてなすりつけて貪るように食った。

 最初はおっかなびっくりだった血糖測定とインスリン注射も、今や熟練して全工程を三、四分で済ませられるようになった。食前血糖値も毎回だいたい百二十前後で安定するようになり、依然健常者よりは高いものの、ぎょっとするような数値が出ることはなくなった。

 ただ、予告されていたとおり、穿孔機で穴を開けて血を絞り出す指は、ローテーションをしていても痛くなってくる。毎回違う指を使ったって、一日三回なら二日目にはもう順番が回ってきてしまうわけで、よく見るとどの指にもボツボツと無数の穴が開いた痕がある。糖尿病になると指が痛くなるなんて、想像の範囲内にはなかった。

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