
「まあさ、あいつも悪かった? とは思うけどさ、まあ一応反省? とかしてるみたいだしさ」
「……」
「つうかさ、もうやめね? こんなさ、ホスト同士でケンカとか?」
ホストの内輪もめで入院かよ! さすが歌舞伎町。
僕はこそこそと病床から抜け出して会社に向かい、夕方戻ってきたときには、外科病棟に空きが出たのか、すでに彼の姿はなかった。
それにしても、病棟というのは本当に気が滅入る場所だ。入っているのがそもそも健康な人々ではないのだから、雰囲気がどこか退嬰的なものになるのは当然で、僕自身もまた、その構成要素の一部になっているにちがいないのだが、何日そこで過ごしたって、この雰囲気には容易になじめるものではない。逆に、それに慣れてしまったら人間としてなにかが終わってしまうのではないかという気持ちになる。
わけても、夜の病棟の雰囲気。これは独特だ。廊下の数カ所にだけ灯された常夜灯の冷たい光。定期的に見回りに来る看護師の怪談めいた足音。静まり返った中に間遠に響き渡る咳やくしゃみや低い唸り声(例・鷺沢さん)。安らかな眠りを打ち破る、おえっ、うぐるがああああうっ、ペッ、という怪しい音声。
そんな夜中にトイレに行くのは最悪だ。病棟のトイレには、非常時に備えてのことだろうが、個室を除けばドアがない。男子の小便器が並んでいるところも廊下と吹き抜け、人間としての尊厳はかなり損なわれた状態だ。しかしトイレには、かなり頻繁に通わざるをえない。高血糖による障害のひとつである便秘にも悩まされていて、遠い便意の予感でもあればその機を逃さず個室に駆け込むようにしていたし、そうでなくても尋常でない多尿状態が続いていた。
ちなみに糖尿病になるとなぜ尿の量が多くなるのかと言うと、血液が常に濃い状態であるため、浸透圧の働きによって細胞側から水分が血液中に絞り出されていってしまうからだ。だから体は常に干上がっている。だからやたらと喉が渇き、たくさん水分を取るので当然尿も多くなるのである。「脱水症状を起こさないように」水分をまめに摂ることは立花医師からも言い含められている。僕は起きている間はほとんど常にお茶や水を飲みつづけていたし、そうすると夜中にトイレにも行きたくなるのだ。
それでトイレに行って小便器の前に立つと、その台座のまわり一帯を囲むほどの、巨大な黄色い水たまりがいつのまにかできている。間違えないでほしい、「水たまり」だ。あきらかに、「ミスヒット率百%」という感じだ。どうしてこういうことが起きるのかはわからないが、ただでさえ病人である上にお年寄りという使用者が多いので、まあそんなこともある。夜間では、それに気づいてきれいにしてくれる人もいない。
やむなく別の便器で用を足し、手を洗おうとして水道に向かうと、今度はそこに、だれかがぶちまけたものと思しい胃の内容物がへばりついてガビガビになっている。蛇口のコックまでそれで覆われているので、手の施しようがない。ここまで来ると、受ける印象としては「怪奇現象」に近い。僕は深いため息をつきながら、洗面台の方に向かう。
そんなある日の朝、ベッドの上で食べ終わった朝食のトレイを、定位置に止めてある配膳車まで下げに行こうとしているとき、なにかただならぬ気配を感じて僕は振り返った。ある病室に、何人かの看護師が大慌てで駆け込んでいる。たしか、うごっ、うがるぎょおおおおうっ、ペッ、の音が夜な夜な漏れてくる部屋だ。彼の身に何が起きたのだろうか。昼前に病棟に戻ってくると、そのベッドはすでにきれいに片づけられていた。そして僕が夜中にあの、おごっ、ぐるぎょわあああうっ、ペッ、という声を聞くことは、二度となかった。
この記事のトラックバックURL:
http://trackback.nifty.com/cs/trackback/ebooks_trackback/1-013
このページの先頭にもどる