平山瑞穂
シュガーな俺



第7章:海野さん登場(1)

 ある日、しばらく空きになっていた僕の正面のベッドに、新しいお客さんが入ってきた。閉め切ったカーテンの内側にずっとこもりきりで、ときどきうんうん唸っている。たまに看護師が来たときなど、つらそうに歪めた顔がカーテンの隙間から覗く程度で、どんな人物なのかは謎のベールに包まれていた。なにしろ、病室のだれかと言葉を交わしている姿さえ見たことがないのだ。

 ところが二、三日もすると、彼は一転してばかに口数が多くなった。どうやら、それまで無口だったのは、単に口もきけないほど具合が悪かったからに過ぎないようだ。

 「痛ぇ、痛ぇよ、チキショー。あの看護婦、なんであんな注射下手なんだよ、チッ、くそっ、何なんだよあいつはよう! イテテテテ……。なんとかしてくれよう!」

 僕が彼から初めてはっきりと聞いた人語が、それだった。甲高い、耳障りな声だ。入口のプレートによると、彼の名は海野賢。ベッドに腰を降ろしたその姿はひどく小柄で、年齢は五十前後と思われるが、顔立ちは妙に幼い。「若い」と言うより「幼い」。小学生の頃からオッサンみたいな顔をしていて、実際にオッサンになってもその頃と顔がちっとも変わらない奴がときどきいるが、彼もきっとそういうタイプにちがいない。

 「注射はうまい・ヘタがあるからねぇ。ははは、災難だったねぇ」

 隣りの鷺沢さんがなだめるように相づちを打ち、仕事を終えて病室に入ってきたばかりの僕に水を向ける。

 「手が腫れちゃったんだってさ」

 「見てくれよ、これ! ほら、チッ、こんな腫れちゃってさあ!」

 そう言って彼は、左の拳を僕に向けて差し出してみせた。丸っこい、ころころした感じのその手が、右手と比べて特に膨張しているようには見えなかったのだが、僕は調子を合わせて「そりゃ大変でしたね」と言っておいた。
 
 こんな風に、この人はいつもなにかを罵っていて、そしていつもなにかを人のせいにしていた。

 「糖尿に、高脂血症に、脂肪肝に……いっぱいあるなぁ」

 処方された薬をうらめしそうに眺めながら、海野さんは言う。まさに成人病オンパレード。いったいどれだけ放恣な食生活をしてきたのだろう。

 「あんたは、糖尿? 若いのに……。でもね、要は環境が悪いのよ。空気もそう、水もそう。そんな悪い環境の中で生きてちゃ、よくなりようがないって!」

 糖尿病が空気感染するとか、汚染された水を飲んだことで血糖値が上がるとか、そんな話は聞いたこともないが、彼の頭の中では、成人病はこれすべて「環境の病」なのだ。悪いのは自分の生活習慣ではない。現代文明こそが諸悪の根源なのだ。

 「それにさぁ、医者の言うとおりになんて、あんたできる? できないって! 飯食うのだって、仕事持ってりゃ外食になっちまうだろ? 量を少なめにって言うけどさ、ションベン横丁で飯食ってさ、残せるかよ。だって店のやつら、残すといやがるんだもん」

 そんなことは、理由にも何にもならない。いやそれ以前に、そもそもそれだけ持病のある人が、「ションベン横丁で食事をする」こと自体、根本的に間違っているのではないか。僕はそれを指摘したかったが、黙っていた。こういう人は決して反省しないし、きっとまた早晩同じことを繰り返すだろう。入院だって、これが初めてとは思えない。彼と同じ轍を踏むつもりは、僕にはなかった。議論をしても永遠に平行線だ。わかり合えるわけがない。
 
 しかし彼は、僕をほうっておいてくれなかった。たぶん、僕が表面上はおとなしく拝聴するポーズを取っているからだろう。なにかときっかけを見つけては話しかけてくる。基本的に寂しがり屋なのだ。

 公共スペースであるデイルームを僕がめったに使わなくなってしまったのも、ひとつには海野さんが原因だった。彼が日中、もっぱらそこに常駐していたからだ。

 病室のベッドにずっとこもっているのは、気持ちのいいものじゃない。本当に病人になったみたいな気分に陥ってくる。いや、事実僕はれっきとした「病人」なのだが、普通に活動できる程度には具合がよくて、事実普通に会社に勤務しつづけている身からすると、正直、「自分は病人である」という自覚は薄い。ちゃんとしたテーブルや椅子のあるデイルームにいれば、少しは「病人臭さ」を払拭できる。

 ただ、このスペースは基本的にテレビをつけっぱなしにしていてうるさいので、落ち着いて読書したり語学の勉強をしたりするには不向きだ。その上、本当は興味もないくせに、「何読んでるの?」などと海野さんがちょっかいを出してくる。彼はその押しつけがましいまでの人懐っこさで、病棟内に着々と知り合いを増やしているようだから、僕一人が抜けても相手には困るまい。そう思って僕は、次第にデイルームに寄りつかなくなった。

 ところが、病室にいたらいたで、デイルームからひょっこり戻ってきた海野さんが必ず僕に声をかけるのだ。ある日、会社から一時抜け出してきたスーツ姿のまま、昼食を待っている間に新聞を読んでいたら、「今日、なにかいい番組やってる?」と訊いてきた。一応、テレビ欄を向けた状態で新聞を手渡してあげたところ、彼はそれをろくに見もせずに僕に返しながらこう言った。

 「朝日は難しいよね」

 訊かなくてもわかることだが、彼にはまず、新聞を読む習慣などないだろう。読むとしてもスポーツ新聞、百歩譲って日刊ゲンダイがいいところだ。

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