
どんな人でも、何日か入院するということにでもなれば、身内のだれかしらが見舞いに訪れるものだ。斜め前の鷺沢さんのところにはほぼ毎日、娘さんが孫を連れて来て、「声のでかい鷺沢一族」の迷惑な団らんを繰り広げていたし、二泊三日の検査入院の場合でさえ、一度くらいは奥さんと思しい人が顔を見せる。
ところが、海野さんのところにそれらしき人が来ているのを見たことは、一度もない。そもそも彼に妻子がいるのかどうかも、僕は知らなかった。いないとしてもあまり意外には思わないが、それにしても親兄弟や友達など、だれか一人くらい顔を出してもよさそうなものではないか。
いや、誰も来ないというわけではない。すでに僕は何度かにわたって、二人連れの男が病床のそばに立って本人と口をきいているのを目撃していた。ただ、本人との関係がわからない。二人とも常にネクタイを締めたサラリーマン風の姿だし、年齢もむしろ三十代前半の僕に近い。つまり、海野さんの「友達」と考えるには無理があるのだ。だったら、会社の同僚? それにしては、妙に頻繁に来ている。
ある日、二人組が海野さんに話しかけている内容が、なんとなく聞こえてきてしまった。
「じゃあ、海野さん、ケータイの方は間違いなく解約しときましたから」
「あと海野さんさあ、悪いこと言わないから、ほんと、入院のこと、家族には連絡しといた方がいいと思うよ」
「そうそう。何があるかわかんないでしょ? 困るじゃないですか、なにかあったら」
なにやら穏やかでない内容だ。対する海野さんは、渋い顔でさもうるさそうに生返事をしている。
やがて二人組が去っていくと、話の一部を聞かれていたことを察したのか、海野さんはなにか言い訳をするように僕に話しかけてきた。
「別れたカミさんさ、前によくテレビに出てたんだよ」
その話はあまりに唐突で、彼が何を言おうとしているのか僕にはわからなかった。
「はあ……」
「あのー、えーと……松野美希? なんかそんな女優いるじゃん? あれと組んでさ、ドラマ出たり。あと、CM出たり」
松野美希と言えば、このところあまり見かけないが、一時期はテレビに出ずっぱりだったそこそこ人気のある女優だ。そうすると、海野さんの前妻も女優だったと言うのか。
「そうなんですか?」
「不動産屋のやつらさ、よけいなお節介をしやがって」
話のつながりが読めずに僕が困惑していると、海野さんはなにやらベッドサイドの乱雑な暗がりをがさがさとまさぐりはじめた。なんだかよくわからないが、さっきの二人組がどうやら不動産屋らしいということだけはわかった。想像するに、容態が急変して「緊急入院」となった海野さん、ほっぽり出してあった諸々の手続きを不動産屋に代行させているのだろう。
「奴ら、こんなもん持ってきやがったんだよ」
戻ってきた海野さんの手には、額に入った一枚の写真が握られていた。写っているのは、喫茶店みたいなところで仲よく向かい合っている熟年のカップル。一方は海野さんだが、今よりもずっと髪がフサフサで、今よりもずっと幸せそうな顔をしている。そのせいか、今よりもずっと魅力的に見える。やり手の実業家だったということが、それを見ればちょっと信じられる感じだ。
そして彼の正面にいるのは、色気ムンムンの熟女。なるほど、これがテレビに出ていたという元奥さんか。知らない顔だったが、これだけ美人なら女優だったとしても不思議はない。
「へえ、すごい美人じゃないですか!」
僕はそう言った。心から、そう言ったのだ。ただ、それに続く言葉は、差し控えておいた。------どうして別れちゃったんですか?
訊くまでもないことだ。きっとあいそをつかされて、捨てられたのだろう。男女の間のこと、直接のきっかけが何だったのかはわからないが、「金の切れ目」が背景にあったことは想像に難くない。車の中で「移動電話」を駆使していたのも昔の話、今や携帯電話の解約を余儀なくされるほどお金に困っているのだ。
不動産屋がうろちょろしているのも、きっと今まで住んでいたところを引き払わざるを得なくなったからなのだろう。早く部屋を空けてほしいので、面倒な手続きを代わりにやってあげているのだ。そして部屋に残ったものの処分を一任されていたところ、大切そうな写真を見つけた彼らが、気をきかせてそれを病室まで持ってきたのだ。
別れてからもそんな写真を後生大事に額に入れて持っていた海野さん、しかもそれを僕にさりげなく見せてしまう海野さんが、いじましくてならなかった。
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