
二度目は、僕から誘った。たまたまいろいろなことがうまく行っていなくて、ムシャクシャしているときだった。琴美は「あ、いいですよ」とあっさり応じた。まるで、「姪への誕生日プレゼントを選ぶのにつきあってほしい」と頼まれたときみたいに。それが今年の二月で、それ以降、琴美とそういうことはしていない。しかし、「二度あることは三度ある」のだ。もう、どちらかがちょっと「ブレた」だけで、それがゴーサインになってしまうだろう。
「何買ってくるか迷ったんだけど、これにしました」
琴美はそう言って、デイルームの小さなテーブルの上に箱入りの柿の葉茶のティーバッグを置いた。
「血糖値下げるのにいいそうですよ」
「ああ、ありがとう。悪いね、気使わせちゃって」
濃緑色の袖なしワンピースから、ほどよい肉づきの腕や、かなり豊満な胸元が惜しげもなくさらされている。そんな恰好の琴美には見慣れているはずなのに、病棟で目にすると変になまめかしく見える。あまり元気そうではなく、顔色もよくないが、そのせいでもともと色白な肌がいっそう濃厚な色香を漂わせるように思えて、僕は慌てて目をそらす。見つめていると、血糖値が上がってしまいそうだ。
「元気そうですね。最後に会ったときよりずっと顔色がいいですよ」
「まあ、クスリが効いてるからね。体重はあいかわらずちっとも戻らないけど」
「今、何キロなんですか?」
「五十三.二かな」
「うわ、私といくらも違わないじゃないですか! 男性の体重じゃないですよね、それ」
僕の身長は一七〇センチちょうどくらいなので、いわゆる「標準体重」である六十三キロにははるかに及ばない。立花医師が言うように本当に「いずれ肉がついてくる」のか、少し半信半疑になるほどだ。
「ただ、気分はとてもいいんだよ。規則正しい食生活っていうのはいいもんだね。体から毒気が抜けていく気がするよ。それよりむしろ、お見舞いに来てくれた君の方が元気なさそうに見えるけど?」
「ええ……実は、昨日も大喧嘩をしてしまいまして」
琴美は六歳上の彼氏とすでに事実婚状態に入っている。入籍については「頃合いを見計らって」いると言うが、一緒に暮らしているとやはりいろいろ気にかかる点があるようで、喧嘩が絶えない様子だ。注意をすれば言ったことについては直してくれるが、本質的なところをわかってくれていない気がするのだと琴美は言う。
「まあわかるけど、でも、男って概して、もちろん僕自身も含めて、人格的成長がすごく遅いからさ。三十過ぎて何が“成長”だって女は思うかもしれないけど、長い目で見てあげてほしいなって思うよ。僕だって妻にどれだけ“教育”されたことか。彼も、君に言われたことを直そうとする謙虚さがあるんだったら、見込みは十分にあるんじゃないかな。時間はかかるかもしれないけど」
「そうでしょうか……。じゃあもうちょっと気長に見守ってみようかな」
片瀬さん夫婦のような関係が理想だ、と琴美は言いつづけていた。共働きで、家計費は折半して拠出し、給料の残りについては完全自己裁量、家事は均等に分担し、おたがいが異性の友達と飲みに行ったりしても、「友達」であるかぎり干渉はしない。彼女が彼氏との関係についてしばしば僕に相談してくるのも、僕を「先達」と見る意識があるからだ。皮肉なことに、今は彼女自身が、その「理想の夫婦関係」にひそかに打ち込まれたくさびになってしまっているのだが。
「喬ちゃん?」
そこに突然、聞き慣れた声が聞こえて、僕は思わず身を竦ませた。いつのまにか、奈津がテーブルの脇に立っている。
「あれ? え? あ、今日は来れないって言ってなかったっけ?」
「ごめん、接待の予定が来週に変更になっちゃって、時間が空いたからちょっと寄ってみたんだけど」
「あっ、え?……奥さん?」
琴美は弾かれたように立ち上がって、奈津に向かって何度も頭を下げた。
「あの、はじめまして。あ、私、秋吉と申します。片瀬さんにはいつもお世話になっております。あ、あの、会社で。会社でお世話に!」
そう「会社で」と強調したら、かえって怪しい。しかし奈津は、僕に女友達が何人もいることは知っているので、特に怪しむ様子も見せずに落ち着いた挨拶を返した。
「あ、いえこちらこそ、夫がいつもお世話になっております」
「な、なんだ、びっくりしたよ。あの、秋吉さんは会社の恵比寿オフィスの人で、今日帰り道ふらりと寄ってくれてね……」
「そうなんですか、わざわざどうも」
奈津は、営業回りで鍛えた愛想のよさで、さっそく琴美と談笑を始めた。琴美もちょっと戸惑いながらにこやかに相づちを打っていたが、少しすると「じゃあ、私はそろそろ……」と腰を上げた。
エレベーターのところまで送るのにかこつけて、そっと琴美に詫びを入れた。
「いや、ごめん、まったく予想外の展開で。びっくりしたよね?」
「はい、ちょっと……。でも、奥さん、すごく感じのいい人ですね」
肝を冷やした。ほかの女友達なら同じシチュエーションになっても慌てる理由がないのに、よりによってどうして琴美が来ているときにこんなことになるのか。
洗濯するものなどがあれば持って帰ると言って病室まで来た奈津は、ベッドを見ると急に疲れが出たのか、「ちょっとだけ横になってもいい?」と言いながら、僕のベッドに横たわった。カーテンを引いてあるので、不審がられることもない。僕は自分が見舞いに来たかのように脇の丸椅子に座った。
奈津はベッドの中から眠そうな声で二言三言なにか言ったかと思うと、ほどなく本当に寝息を立てはじめた。激務なのだ。ふと気を抜いた瞬間に眠りに襲われるほど疲れているのだろう。でも、眠っているときの奈津はあどけなくて、とても幸せそうな顔をしている。僕はしばらくの間、薄く唇を開いてこんこんと眠る奈津の顔を、じっと眺めていた。
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