
最終日の土曜、この病院での最後の血糖測定を終えて病室に戻るとき、ふとナースセンター脇の壁の貼り紙に目が止まった。「この病棟のお食事について」とある。患者の病気の種類などによって、別の患者とは内容や量が異なる場合があること、ほかの患者との間でおかずの交換などを勝手に行なわないこと、など当然の注意事項を列挙した後に、小さくこう書き添えられている。
朝食は、和食(ごはん)か洋食(パン)かを選べます。
洋食をご希望の場合は、前日の夜までに看護師にお申し出下さい。
選べたんなら、先に言ってよ! と思う。いや、たぶんこの貼り紙は、僕が入院した時点からあったのだろう。単に僕が不注意だっただけだ。しかし、大崎さんが最初に口頭で教えてくれさえすれば、僕は毎度の和食にうんざりさせられることもなかったものを。
どっちみち、最後の朝食についても、もう希望を出す締切は過ぎていた。出てきたのは、相も変わらぬ和食だった。
その朝食を済ませた頃、立花医師が回診に来た。
「今日で無事、退院ですね。経口血糖降下薬も効いてるようですし、退院後も引きつづきそれで行きましょう」
心なしか、晴れ晴れとした顔をしている。「一ヶ月で必ず退院させます」と自信満々に宣言していたことを思い出す。たしかに、彼は約束を守ったわけだ。プロレスラーのような頼りがいのありそうな体格は、伊達じゃなかったのだ。
「非常に順調ですから、そのうち飲み薬も必要なくなって、食事療法と運動療法だけでやっていけるようになるかもしれませんよ。で、この後は一ヶ月に一度、外来として検診に来ていただくことになりますけど、今の時点でなにか気になることはありますか?」
「あの、血糖測定なんですけど……」
入院中、血糖測定は、毎回の食事と必ずセットになっていた。指に穴を開けて血を絞り出した回数も、もう百回には及んでいるだろう。人差し指から小指まで、どの指も痛い。これ以上、穴を開けたくはない。しかし、ずっとそれをやってきたせいで、血糖を測りもしないで食事を摂るのはなんだか不安な気がする。測定器を入手することはできないのか。
「そりゃ、ご購入されたいと言うのなら、下で売ってますよ。ただ、私は個人的にはお薦めしません」
立花医師はきっぱりとそう言い切った。
「まず、買うとけっこう高いです。二万円くらいするんですよ。それにね、持ってるとやっぱり、毎回測っちゃうでしょ? それで一日三回、上がったの下がったのって一喜一憂する人生ってどうなのかって思うんですよ。まるで血糖値を測るために生きてるみたいなことになっちゃうんじゃないかと。片瀬さんには、もっとのびのびと生きてほしいです。どうせ月に一回、採血してヘモグロビンA1cは測定して、過去一、二ヶ月間の状態はわかるんですから、それでおおむねの傾向は掴めます。十分なんですよ、それで」
この人の言うことには、あいかわらず説得力がある。たしかにそのとおりかもしれない。どのみち、今後もずっと療法は続けなければならない。つまり、この病気とは長いつきあいになるのだ。それを思えば、毎日ちまちまと血糖値を測ることにどれだけの意味があるというのか。
「わかりました。では、買うのはやめにします」
「大丈夫ですよ、片瀬さんは理解力があるし、努力家だし、きっとよくなりますから」
立花医師はそう言い残して、巨体を揺らしながら去って行った。その背中に向かって、思わず「ご指導、ありがとうございました!」と叫びたくなった。
この記事のトラックバックURL:
http://trackback.nifty.com/cs/trackback/ebooks_trackback/1-020
このページの先頭にもどる