
思い当たることはひとつしかなかった。ストレスだ。その日僕は、たまたまある問題について上司と意見が折り合わず、その後数時間、ずっとカッカしていたのだ。
立花医師にその一件を報告したら、原因はまちがいなくそれでしょう、と言われた。食事を適正な量に抑え、インスリンをちゃんと打っていても、ストレスのために血糖値が目に見えて上がることがあるのだ
「怒ったりすると、アドレナリンが放出されます。これがよくないんですよ、血糖値には。アドレナリンには、インスリンの作用を阻害する働きがあるんです」
だから、なるべくストレスを受けないような生活を心がけることも、糖尿病患者にとっては大切なのだ。
極端なまでに自分を律する僕の暮らしぶりが、ストレスになっていないわけがない。事実僕は、あまりに多すぎる家事に半べそをかいたりまでしているではないか。奈津との間でいろいろ工夫して、多少は事態が好転したとは言うものの、常に過大な負担がかかっている点に変わりはない。奈津もそれを見かねて、それとなく助言してくれたわけだ。
理屈ではわかっている。「教育入院」の間に検査技師の先生が話していた、「孫がくれた誕生日のケーキ」のエピソード。まさにあれだ。「トータルで帳尻が合っていればいい」のだ。しかし僕はすでに、毎週金曜日の飲酒という形で「逸脱」している。その逸脱を、ほかの曜日に吸収させているのが現状だ。そこの統制を緩めたら、「週一の飲み」という楽しみ自体が成立しなくなってしまうのではないか。
僕はどうしてもその強迫観念から逃れることができず、あいかわらず分刻みのスケジュールですべてが厳密に管理された生活を続けた。それで着々と数値が改善されてきたのだから、基本的には間違いがないはずだという自信もあった。とにかく、最終的に根拠になるのは、数値なのだ。
しかし、三月の採血結果によって、「根拠」はあっけなく崩れた。
ヘモグロビンA1cが、どういうわけか、七・六に逆戻りしていたのだ。グラフの線は、「レ」の字を細くしたような形を描きながら急角度で上向きになっている。一瞬、目を疑った。
「どうしたんですかぁ、片瀬さん。ちょっと悪化しちゃってますよ」
立花医師が、ひどく残念そうな顔でそう言った。芝居がかった感じではあったが、あるいは本気で残念がっていたのかもしれない。なにしろ、僕ほどの「優等生」はそうそういないだろうから。
「これまでどおり、ちゃんとやってるんですが……」
僕には、そうとしか言えなかった。実際、それが掛け値のない事実でもあったのだ。
何がいけなかったのだろうか。僕は動揺する頭でここ一、二ヶ月の自分を振り返ってみたが、思い当たることはほとんどなかった。たしかに、「数値が改善されているのだからかまわないのだ」と自己判断して飲んでいた酒の量が、最近、油断から多くなっていたかもしれない。日曜の昼下がりなどに、たまに近所のカフェでコーヒーを飲みながらちょっとした洋菓子をつまんだりすることもある。しかし、そんなのはささやかな逸脱じゃないか。
それとも、ストレスなのだろうか。頑張りすぎて、かえって自分の首を絞めてしまっているのだろうか。でもだったら、どうして今までは順調にグラフが下向きになっていたのか。
「それでですね、そんなときにたいへん申し上げにくいことなんですが……」
僕の黙想を破るように、立花医師が切り出した。
「実はですね、来月からこの病院、都立じゃなくなっちゃうんですよ。第三セクターの経営に切り替わっちゃうんですね」
「はあ……」
「で、それに伴って組織の大幅な改編がありまして、私みたいな糖尿病の専門医を置くポストが削られちゃうんですよ」
やや憮然とした面持ちで、立花医師がそう言う。
「えっ? それじゃ、先生はどうなっちゃうんですか?」
「とりあえず、ここにはもういられないってことです。まだ次の行き先は決まってないんですけどね」
泣きっ面にハチ、とはまさにこのことだ。ただでさえ、数値が突然悪化に転じて不安のただ中にいるというのに、通っていた病院から担当医がいなくなる? しかも、糖尿病専門医のポストを削るとは、いったいどういう了見なのか。「成人の六人に一人が予備軍」と言われる、今後ますます注目されていくはずの病気だというのに。
「あの……じゃあ僕は、今後どうすればいいんでしょうか……」
「同じ都立で専門医のいるところをどこかご紹介することはできます。片瀬さんの場合は、そうですね、お住まいからして、板橋病院が近いんじゃないですかね」
そう言って立花医師は、その場でサラサラと紹介状を書いて、カルテと一緒に封筒に入れた。ただ、宛て名のところは空欄になっている。都立板橋病院に限らず、民間のクリニックなどにもいいところはあるので、ネットなどでいろいろ調べてから転院先を決めればいいのでは、と言う。
「すぐには決まらないかもしれないから、お薬は多めにお出ししておきますね」
そう言いながら、最後の処方箋を書きつけている立花医師の手元を、僕はなすすべもなくただ見つめていた。
「それでは、あの……いろいろとお世話になりました」
「はい、どうぞお大事に」
立花医師との別れは、ばかにあっさりした、歯切れの悪いものになった。そのプロレスラーのようなどっしりした体型と、妙な説得力のある悠長な話し方に、思ったより自分が頼りきっていたことに初めて気づいた。本当なら、握手のひとつでもして劇的にお別れを言いたかったところだ。しかし、数値が逆戻りしたのが発覚した直後とあっては、どうにも間が悪い。
僕は親に捨てられた子供のように心細い気持ちで、都立新宿病院を後にした。そしてこれこそが、その後僕を見舞うことになる悪夢の、不吉な幕開けだったのだ。
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