
退院後も、琴美とはときどき会っていた。ただその間、実際にどうにかなったことは一度もなかったし、正直なところ、僕は自分のことで手いっぱいで、よけいなことをたくらむ余裕もなかった。僕たちはただ、いくらかの酒を飲みながらたわいもないおしゃべりをして別れただけた。
初夏にさしかかったこの日の晩も、琴美と会うに際して、「そんなつもり」は毛頭なかった。琴美はもともと、亜梨沙と違って進んで大酒を食らうタイプでもないので、僕の方のペースも自然に同調して穏当なものになる。最初の店でビール二杯と焼酎一杯、その程度だ。意識は明晰で、理性的判断を下す能力は十分にあった。
ただ、僕はひどく疲れていた。正確には、疲れと言うより倦怠感だ。それが、悪化した糖尿病の症状としての倦怠感なのか、それとも血のにじむような毎日の努力が報われない現実に対する失意に根ざしたものなのか、僕にはもう区別がつかなかった。たぶん、両方だったのだろう。体も心も重く、ちょっと気を抜くとすぐに、心のささくれ立った部分が、琴美に向ける笑顔を裏切って表に出てきそうになる。
「片瀬さん、疲れてるんじゃないですか? 大丈夫?」
僕の心情を察して気遣う琴美は、「具合が悪い」とか「病状」といった語彙(ごい)を、僕の前では周到に避ける。それでも、その言い方から、僕の外見が人を心配させるほど「具合が悪」そうに見えることは容易に想像できる。僕はそれを打ち消すように、無理に笑顔を作った。
「いや、大丈夫だよ。もう一軒くらい行こうよ、軽く」
「大丈夫なら、いいんです。じゃあどうしますか? どこか、バーとか……」
僕は自分から「もう一軒」と提案しておきながら、また別の店を探して席に着き、メニューを見て、カクテルなりウイスキーなりを注文することを思うと、急にそれがはてしなく億劫なことであるかのように感じられて、言葉に詰まった。
「そうだな、今日はなんとなく……」
そう言ったきり黙っている僕を、琴美が注意深げに見守る。次に僕の口をついて出た言葉は、これだった。
「その、なんというか、ゆっくりしたいんだよね。しっかり飲むとかじゃなくて、どこか静かなところで。誰にも邪魔されずに」
それはたぶん、その時点における僕の、精いっぱいの本心だった。そしてもしそうなら、僕は琴美と別れて家に帰るべきだったのだ。しかし、僕の中の、どこか捨て鉢になっている気持ちが、それを許さなかった。
「あ、じゃあ……どこかで“ご休憩”でもします?」
僕は、自分が本当にそうしたいのかどうか確信も持てないまま、なんとなくうなずいてしまった。
ホテルの部屋に入った瞬間から、いやな予感がしていた。それでもいざそのときになれば、という期待は、あえなく裏切られた。シャワーを浴びて、琴美の豊満な肉体を前にしても、僕は男としてまったく機能しなかったのだ。酒の量が過ぎたときにそうなるように、気持ちは盛り上がっているのに体が思うように反応しない、というのとも違う。そもそも、その気になれないのだ。
「気にしないで。疲れてたんでしょう?」
琴美が放ったその決まり文句にあいまいにうなずきながら、これは「疲れてる」とかいう問題ではない、と心の中で呟いていた。「インポテンツ」「性欲減退」。ものの本には、「倦怠感」「喉の渇き」「手足のしびれ」などと並んで、それも「症状」として列挙されている。どっちみち奈津があまりに多忙なため、ここのところそういう機会さえほとんどなかったから、気づくのが遅かっただけだ。
血糖値が三百を超えて入院を余儀なくされたあの頃でさえ、こんな「症状」はなかった。もう、どうしたってごまかしようがない。まちがいなく僕の糖尿病は急激に悪化しているのだ。
ベッドの上で悄然(しょうぜん)とうなだれている僕の背中に、琴美が裸の胸を押しつけ、気遣わしげに両腕を回してくる。その手が、あばらが浮くほど痩せ衰えた僕の胸を探るように撫でた。
「片瀬さん、こんなに痩せちゃって……」
僕はその手を逃れるようにしてベッドを降り、手早く服を身に着けた。
新宿駅へ向かう僕たちの間を、気まずい沈黙が支配した。僕は琴美に対する面目なさと、奈津に対する申し訳なさでいっぱいで、身勝手なことに一刻も早く一人になりたいと思っていた。それを感じ取ったかのように、琴美がことさらに明るい口調で「また飲みましょうね」と言った。「うん、またね」と僕は答えたが、目を合わせることはできなかった。
中央線快速のホームへ向かう階段の下で僕と別れ、階段を昇っていった琴美は、その後僕が隣の階段を昇って電車に乗り、まっすぐ家に帰ったものと思っていただろう。ところが、僕はそうしなかった。
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