平山瑞穂
シュガーな俺



第14章:不本意な再会(2)

 打ちひしがれた、いやな気分だった。わが身を襲った理不尽な事態に対する怒りや、性懲りもなくまた不貞を働こうとしてしまった自分自身に対する嫌悪や、症状としての気だるさなどが一緒くたになって、僕を自暴自棄の底辺にまで引きずり下ろそうとしていた。僕は亡者のようにふらふらと東口の改札口へ向かい、そろそろ帰宅しようと一斉に駅へ向かってくる雑踏の中を逆流するように、夜の街の中に踏み出していった。

 あてもなく歩くうちに、いつしか歌舞伎町のただ中に迷い込んでいた。退院後しばらくして、僕が通う会社は都立新宿病院と隣り合わせのサルビアビルを引き払い、原宿に移転していたので、このあたりに足を運ぶことも最近ではほとんどない。けばけばしいネオンの街並みを透かして、頭上高く闇の中にぼんやりと十七階建ての病院ビルが浮かび上がってきたとき、僕は本能的にそこから目を逸らして、反対側に向かう路地を目指していた。病院が近いと思うだけで、うしろめたいような、腹立たしいような気持ちになるのだ。

 「桃色倶楽部」「あっぷる」「ナメたが〜る」……そんな扇情的な看板がギラギラと輝きながら視界に舞い込んでくる。琴美と気まずい別れ方をしてきたばかりの僕は、それを見て無性に腹立たしくなり、舌打ちしながら看板のひとつを蹴飛ばしてしまった。

 「何だよ、あんた!」

 その看板の影から蝶ネクタイの従業員が出てきて、僕の胸ぐらを掴んだ。僕はその手を乱暴にふりほどいて、さらに路地を奥へと辿っていった。従業員が後ろからなにか怒鳴っていたが、それはすぐに、やかましい喧騒の中に溶けて消えた。

 自分が何をしたいと思っているのか、わからなかった。ただ、このまま家にまっすぐ帰るのだけはごめんだと思っていた。
 
 きちんとカロリーコントロールをしていても、どうせ悪化するのだ。だったらいっそ、酒でもなんでも飲んじまえ! 好きなだけ飲んで、好きなだけ貪り食っちまえ!

 僕はたまたま目に留まったカウンターだけのバーに入って、ウイスキーのロックを立てつづけに五杯飲んだ。つまみとして頼んだミックスナッツが、油脂をたっぷり含んでいて超高カロリーであることをぼんやりと意識しながら、さらに六杯目を頼んだ。ちっともうまくないし、ちっとも酔えない。いらいらしながら会計を済まし、席を立った途端、頭がぐらりと傾いだ。誰とも口をきかず黙々と飲んでいたので、自分がどれほど酔っているかがわかっていなかったのだ。

 それでもなお、僕は家に帰る気になれず、次に入る店を目で探した。ふと、魚の焼けるいい匂いが鼻先に漂ってきた。突然、食欲が沸き起こってきた僕は、黄ばんだ暖簾を下げた目の前の店に吸い寄せられるように入っていった。

 「らっしゃい、お一人様!」

 酒焼けした顔のオヤジが威勢よく声をかけ、カウンターにおしぼりを置く。壁に貼り出したメニューに目をやると、飲み物のところには「ビール」「焼酎」「日本酒」としか書いていない。銘柄を選べるような種類の店ではないようだ。あまり考えもなしに日本酒を冷やで頼んだら、冷蔵庫でギンギンに冷やした「沢の鶴」の小瓶が出てきた。

 もう味もわからない状態でそれを矢継ぎ早にグラスに注ぎながら、そういえば焼き魚が食べたくてこの店に入ったのだったと思い出し、壁のメニューに目を走らせていたら、「あれえ?」という甲高い声が聞こえた。

 「先生! 先生じゃないの!」
 
 カウンターの二つ離れた席から、小柄な中年男が人懐っこそうな満面の笑みでひょこひょこ歩いてくる。こんな店で知り合いに会うはずがない。第一、僕がいったい何の「先生」だというのか。そう思いながら、いや、この顔はたしかに知っている、と脳の一部が声高に叫ぶ。

 海野さんだった。

 入院中に同室だった、あの海野賢さんだ。

 もちろん、退院以来初めての顔合わせだ。思いもかけぬ再会に僕は思わず顔をほころばせたが、すぐにその懐かしさが、ちょっと人寂しくなっていたための錯覚に過ぎないことに気づいた。別に、今会いたい人物ではなかった。どちらかと言うと、一番会いたくない人物だったかもしれない。

<前のページ

| | |

次のページ>


この記事のトラックバックURL:
http://trackback.nifty.com/cs/trackback/ebooks_trackback/1-028

このページの先頭にもどる