
「先生、その後どうですか!」
海野さんは断りもなく僕の隣に移動してきて、自分が飲んでいた「鏡月」のボトルと水割りのセットを、カウンターの上でスライドさせた。小鉢に入ったタコブツらしきつまみも一緒だ。すでにできあがっているらしく、むやみに機嫌がうるわしい。ただ、見たところ連れはいない。ふと腕時計を見るともう十二時近いが、いつから一人で飲んでいたのだろうか。
「どうって、まあぼちぼちですよ」
ほとんど意味のない受け答えをしながら、僕は早くも、どうやって彼から逃れるかを算段しはじめていた。しかし、「お料理は?」とオヤジに訊かれたとき、反射的にほっけの塩焼きを頼んでしまった。それを食べ終わったら、店を出ようと心に決めた。
「いやあ、偶然だねぇ。何、仕事帰り?」
「ええ、まあ」
海野さん自身は何の仕事をしているのか、洗いざらしのポロシャツにくたびれたジーンズという冴えない出で立ちだ。当然のことながら、景気がよさそうには見えない。
「いつもこのへんで飲んでんの?」
「いや、別に“いつも”飲んでるわけじゃないけど」
いつも、じゃない。あんたとは違う。成人病オンパレードのくせに「ションベン横丁で食事」しているあんたのような人種とは違うんだ。
そう言ってやりたかったが、現に僕はこんな時間に歌舞伎町で好き放題に飲み食いしている真っ最中だ。今、何を言っても説得力がない。
「海野さん、結局、入院はどれっくらい?」
「二ヶ月、いや、二ヶ月半くらいかな。その後はまあ、普通にやってるけどさ、調子悪いよ、あいかわらず。だって、環境が悪いんだもん。よくなりようがないって」
また始まった。この人はどうしてこう、なんでもかんでも人のせいにするのだろう。
「先生も、調子悪そうじゃないの」
どうやら僕の名前は忘れてしまっているらしく、「先生」で通す腹と見える。
「見りゃわかるよ、顔色悪いもん。内臓悪くしてる奴は、顔色見りゃわかる。あのう、何? 土気色? そんな感じ」
僕は憮然として言い返す。
「でも僕は……ちゃんとやってたんすよ。食事療法だってかなり厳密に。実際、ひところまでは数値もどんどん改善されてたんすよ。それが急激に悪化して……なんでですか? おかしいと思いませんか?」
「そんなの、最初のうちだけだって。みんな、言うとおりになんかできないって。だって、やれジャガイモが何グラムで何カロリーですとか、いちいちやってられっかってんだよ。人には生活ってもんがあってさあ……」
「いや、だから僕はそれをやってたんだってのに! ずっとそれを! 今もやってんのに!」
「まあ、いいじゃないの! 飲もうよ、今夜は。再会を祝して!」
話は最初から平行線で、これ以上言い募っても無駄だということは、シラフだったら判断できたはずだ。しかし僕の発言はもはや、聞き手に趣旨が伝わっているかどうかを問わない酔っ払いの繰り言に等しくなっていたし、海野さんの方と言えば最初からまともに聞く気などなかった。僕たちは噛み合わない会話を続けながら、結果としてその店にずいぶん長居した。
ほっけの塩焼きが出てくる頃にはもう食べる気も失せていたが、それでも僕はほとんど機械的にそれを一人でたいらげてしまった。たぶん、それだけで推定二百五十キロカロリー前後に達するということを、僕は考えないようにしていた。
その後、とうに終電もなくなった状態で、海野さんとさらに数時間をともに過ごすはめになったのがなぜなのか、後から考えてみてもどうしてもわからない。気がついたら僕は彼と一緒にキャバクラのソファに深く身を沈め、ろくなトークもできない頭の悪そうな女の子たちに囲まれていた。
「僕はね、糖尿病なんだよ、わかる? 糖尿。糖って、シュガーね。もう、膵臓ボロボロ!」
「えー、ヤバいじゃん。こんなとこで飲んでていいの?」
「いいのいいの! どうせもうよくならないんだから。不治の病だからさ。そこのオッサンなんかもっとひどいよ、糖尿だわ高脂血症だわ腎臓病だわ肝硬変だわアル中だわヤク中だわ、ねえ海野さん!」
「おまえ、あることないこと言うなよ、人のことを廃人みたいにさあ。おまえだって同じ穴のムジナだろうがよ!」
同じ穴のムジナ。そうなのだろうか。そうなのかもしれない。僕は海野さんの抗弁を笑い飛ばしながら、うそ寒い気持ちの中に沈み込んでいく自分をおぼろげに意識していた。
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