
「ちょっと、ハメを外しちゃったんだよね?」
奈津は朝帰りの件について、そのひとことしか口にしなかった。下手に追及しても僕が苛立つだけだということがよくわかっていたのだろう。実状はハメを外したというより「ヤケを起こした」のに近かった僕も、そのまま自堕落な生活に突入する勇気はとうてい持てなかった。あの晩、いや、あの朝以来、何日経っても右手の痺れが取れないことが、僕を心底恐怖させていたのだ。
神経障害の初期症状に違いなかった。この頃夜中や明け方に予告もなくふくらはぎがこむら返りを起こし、激痛に睡眠が中断されてしまうのも、「症状」なのだ。このまま放置すれば、入院中に見せられた写真みたいに、足の裏が壊疽を起こすかもしれない。眼底出血で失明するかもしれない。口の中が煮こごりみたいにぐずぐずに溶け出すかもしれない……。
しかし、そんな不安と背中合わせの「浪人糖尿病患者」状態も、終わりを告げようとしていた。ようやく、都立板橋病院で予約した初診日がやって来たのだ。原因不明の病状悪化についても、これで解明するだろう。相手は専門医だ。なんらかの処置を講じてくれるはずだ。六月中旬のある日、午前半休を取った僕は、イカダに乗っての長い漂流の果てにやっと見つけた小島に上陸するような気持ちで、板橋病院の門を叩いた。
午前十時の予約だったにもかかわらず、診察室に呼ばれたのは十一時四十分だった。これでは昼休みが終わるまでに出社できない。どうしてこんなに待たされなければならないのか。ここに来るまでに、すでに僕は十分すぎるほど待っているというのに。
げんなりした気分で入室すると、回転椅子には小柄な女医が腰かけていた。歳はたぶん三十代の前半、僕といくらも変わらないだろう。ことによると僕より若いかもしれないくらいだ。その顔は、一見して、僕をどこか落ち着かない気持ちにさせた。まるで、そこに座らされていることをちょっと迷惑に思っているような顔つきなのだ。もともとそういう顔なのだろうが、臨床医としてこれはどうなのだろう?
どっしりした体型と悠長な物腰で有無を言わさず患者を安心させてくれた立花医師とは、大違いだ。つい比較してしまって、初っぱなから僕は心もとない気持ちで彼女の前に腰を下ろすことになった。
「片瀬喬一さん。えーと、新宿病院の立花先生のところからのご紹介ですね……」
「星野」というネームプレートをつけた彼女が、事務的な口調でそう言いながら、新宿病院から紹介状とともに引き継がれた僕のカルテにざっと目を通す。
「去年の八月から一ヶ月入院、と。最後に測ったときヘモグロビンA1cどれっくらいでした?」
「七・六です。それまではもっとよかったんですけど、ちょっと悪化していて……」
「そうしますと食後血糖値は? だいたいでいいですよ」
「うーん、百七十、前後でしたか」
「そうですか。今回の検査での血糖値がですね……」
そう言って彼女は、目の前の端末を操作して僕のデータを引き出した。ここではペーパーレスが進んでいて、診察前に採血した結果が早くも画面で閲覧できるらしい。
「え……?」
画面に目を走らせるなり、星野医師は突然絶句し、こわばった顔のまま受話器を持ち上げてどこかに内線をかけた。
「内科の星野ですが、さっき採血された片瀬さん、片瀬喬一さん……ええ、これ……ですよねぇ、……そうですか、はい……はい……わかりました」
緊迫した雰囲気で短いやりとりを終え、受話器を元に戻すと、彼女は眉根に皺を寄せながら僕に向き直った。
「あのう、異常に高いんですよ、血糖値が」
「え……」
「五百超えてるんです」
五百? ありえない。入院前の一番悪かったときでさえ、食前とは言え三百二十八だった。聞き間違えじゃないのか?
「ご……五百、ですか?」
「ええ……ちょっとこれは……。私も今、間違いじゃないかと思って検査室に確認してみたんですけど、やり直してもそうだったってことで……」
星野医師が目を向けている画面に、いくつかの数字が並んでいた。僕の位置からでも、見ようと思えば見ることができたはずだ。でも僕は、怖くて数字を読むことができなかった。血糖値が五百を超えている、それだけで十分だ、自分がまちがいなく死に瀕していることを知るには。
「どういうことでしょう……なんで……」
動揺のあまり、唾液の分泌が止まってしまって、思うように舌を動かすことさえできない。「かなり悪くなっている」とは予想していたものの、数値はその予想をはるかに上回っていた。そして、なお悪いことに、「動揺」していたのは僕だけではなかった。
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