平山瑞穂
シュガーな俺



第17章:天国と地獄(1)

 三時間後、僕は“ブルータス”のフロアで亜梨沙と並んで、ザ・ストレーツが奏でるアース・ウインド&ファイアーの「宇宙のファンタジー」に合わせてアホのように体を揺らしていた。まったく、宇宙船ファンタサイ号で幻想の国にでも連れ去ってほしい気分だった。

 まだ早い時間なのに、もう何杯飲んだかも覚えていなかった。なにもかもがどうでもよくなっていた。僕はことさらにはしゃぎ、日中、病院で聞かされたことなどなかったかのように振る舞っていたが、心の底には、受け入れがたい事実といまだ死闘を繰り広げている別の自分がいた。

 「片瀬さん、超よかったでございますねぇ、またこうして飲んで踊ってアホにおなりになれて」

 ステージが終わり、席に戻ってから、亜梨沙が紅潮した顔で言った。「アホにおなりになれて」はないだろうと思うが、事実、「アホ」になりたくて来ているのだから、やむをえない。

 「前にここに来たときには“飲み納め”とか仰せだったのに。歳月は日々に疎く、虎穴に入らずんば虎児を得ないものでございます」

 亜梨沙が挙げたことわざは二つとも用法が間違っていたが、僕はただ笑い飛ばして、スミノフをなみなみとグラスに注いだ。

 「今日はちょっとね、“ブルータス”気分だったんだよね。英語で言うと、ブルータス・ステート・オブ・マインドね。ねえねえ、ビリー・ジョエルのさ、“ニューヨーク・ステート・オブ・マインド”って曲、知ってる? ビリー・ジョエルってさ、中学の頃けっこう好きだったんだけど、田中康夫が『なんとなくクリスタル』の註の中でビリー・ジョエルのことを“ニューヨークの松山千春”とか言っててさ、最初それ、納得できなくてさ、いや、松山千春が悪いってんじゃないんだけどさ、ほら、松山千春と言えば、“長い夜”じゃん? あれってさあ、ひところずいぶん物まねされたけどさあ……」

 僕は口から出まかせに、どうでもいいことを途切れなくしゃべりつづけた。亜梨沙が相づちを打つ余地さえないほど立て板に水で。理由は簡単だ。踊っていない間は、少しでも黙ると、直面したくない事実が地中から躍り上がって僕の足首を掴み、奈落の底に引きずり下ろそうとするような気がするからだ。
 
 しかしやがて亜梨沙が、そんな僕のひとり語りを不意に制止した。

 「あのっ、しばし、片瀬さん!」

 「な、何?」

 「なんか、さっきから自動的にしゃべっておいででは? ロボットみたいでございす。変ですよ、今日、ノリが」

 「いや、それは……ハハ、酔っぱらってるからね。いつものことと言うか、ね」

 亜梨沙は眉根に皺を寄せ、疑わしそうに僕の顔をためつすがめつした。ただの酒好きのように見えて、変に勘が鋭いところがあるのだ。

 「そういえば……さっきメールに書いておられた“お祝いしたいこと”って、何だったんでございましょうか?」

 頭を鈍器で殴られたみたいに、視界が暗くなった。僕は傾けていたウォツカのグラスをテーブルに置き、ため息をついた。

 「亜梨沙ちゃん……“祝い”という字と、“呪い”という字は、似てると思わない?」

 亜梨沙は人さし指で空に「祝」と「呪」を続けて書いてから、うんうんとうなずいた。

 「たしかに。で、それがなにか?」

 「いや、なんでもない」

 「えー、気になります。仰せになっちゃってくださいよう」

 僕は彼女から目を逸らしてスミノフを飲もうとしたが、亜梨沙に腕を引っ張られて膝の上にこぼしてしまった。

 濡れたところを紙ナフキンで叩いていたら、胸ポケットの携帯が鳴った。ディスプレイには「自宅」とある。つまり、奈津からだ。

 一瞬、身がこわばった。

 朝、声をかけるのもためらわれるほどかたくなに僕を拒んでいる姿を見送って以来だった。まだ八時台で、奈津が帰宅しているにしては早いのも気になるし、そもそも、普段はよほどのことがなければ自宅からわざわざ携帯にかけてきたりしない。

 もしかして、仲直りしようとしているのか?

 緊張を解けないまま、僕は亜梨沙にひとこと断ってから電話に出た。

 「あ、もしもし? 私だけど、今、話してて大丈夫?」

 特に機嫌がいいとも悪いとも言えない、いや、どちらかと言うと機嫌がよくはなさそうな、平坦な声で奈津が言う。

 「今日はちょっと早めに上がって、さっき帰ってきたとこなんだけど、留守電が一件入ってて……。喬ちゃん宛てなんだけど、大事な用件っぽいから」

 「ああ、そりゃわざわざ……」

 和解の申し出じゃなかったのか。僕はちょっとがっかりしながら、そのメッセージの主を訊ねた。
 
 「コウエイシャの、ナガクラ……って聞こえるんだけど、男の人の声で。遅くてもかまわないので折り返し電話くださいって」

 まったく心当たりがない。コウエイシャ? コウエイシャと言えば普通は大手出版社の興栄社だが、そんなところが僕に連絡を寄越してくるはずがないではないか。

 「コウエイシャって……あの興栄社じゃないよね?」

 「それは私もわからないよ、音でしか聞いてないんだから。とにかく、吹き込んであった電話番号を言うから、かけてみたら? あ、メモできる?」

 僕は慌ててバッグからボールペンを取り出し、紙ナフキンに奈津が言う番号を書きとめた。

 「じゃあね。まだ飲んでいくんでしょ?」

 「ああ、うん……」

 奈津の声音があまりに事務的な感じなので、僕の方も素直になれず、通話は歯切れの悪い感じで終わった。いずれにせよ、今はこのコウエイシャの正体を突き止めるのが先決だ。

 「ごめん、もう一件」

 僕はそう言って亜梨沙を待たせておいて、奈津から聞いた番号にかけてみた。直通番号だったらしく、電話口に出たのはナガクラ氏本人だった。

 「自宅の方にお電話をいただいていたようなんですが……」

 「あ、片瀬喬一さんですね。お世話になっております」

 「あ、いえこちらこそお世話に……」

 お世話に、なった覚えはないと思う。まちがいなく。

 ただでさえ混乱している僕に、ナガクラ氏はさらにわけのわからないことを言ってきた。

 「それで、先ほどお電話さしあげたのはですね、このたび片瀬さんが『新世紀フィクション大賞』に応募なさった『イジリ写真館』が、社内選考会で二次予選を通過しまして、いよいよ選考委員の先生方がご覧になる最終選考に進むことになりましたので……」

 この人はいったい、何を言っているのか?

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