
「このたび、籍を入れることになりました」
秋吉琴美がそう言うのを聞いて、僕は一瞬、口をポカンと開けてアホ面をさらしてしまった。
「あ、そう」
そのまま黙っていると本当にアホみたいなので、すぐに気を取り直して語を継ぐ。
「そうなんだ、へえ。やっと決心がついたわけだ」
「はい、いろいろありましたけど、実は彼が来月から広島に転勤になるんです。それを機に……。片瀬さんが言うように、彼がこれ以上“成長”するのを待ってたらキリがないし、ある程度見切り発車でいいのかなと」
琴美には事実婚状態の恋人がいたが、細かい諍いが絶えないため、ずっと入籍を見合わせていたのだ。
「それは……よかったね、おめでとう!」
「いろいろと相談に乗ってもらってたので、片瀬さんにはきちんと報告しなきゃと思って……」
今回、琴美に「会いたい」と誘いをかけられてから、実際に約束をするまで、僕はずいぶん迷った。
二人で会ったのは、ホテルに入ってしまったにもかかわらず役に立たなかったあの晩が最後だ。その後およそ半年の間、僕はときどきメールでやりとりする以外には、なんとなく琴美と接触することを避けていた。最後の別れが気まずいものだったこともあるし、その直後に1型罹患が発覚したり、「新世紀フィクション大賞」に受賞したりと自分にとっての大事件が重なって、それどころではなかったという面もある。
でも一番の理由は、ほかにあった。
今度の糖尿病発病から現在に至るまでのいくつもの荒波を乗り越えるとき、常に喜怒哀楽を僕と分かち合っていたのは、奈津だった。それを通じて、僕は奈津との絆が以前よりも深まったように感じていた。
後から思えば、発病前後の時期と言うと結婚して四年ほど、ある種の倦怠期を迎えていたのかもしれない。奈津の昇進とそれに伴う多忙がちょうど重なって、知らぬ間に二人の間にすきま風が忍び入っていたのだろう。そのとき、似たようなすきま風に追われるようにして僕の前にやって来た琴美と、僕はあっけなく過ちを犯してしまったのだ。
でも、僕を襲った非運は、妻である奈津を巻き込まずにはいなかった。僕らはひとつの非力な傘の下で身を寄せ合うようにして、嵐の中をかい潜ってきた。絆は再び強まり、以前よりももっとたしかなものとなっていた。
そんな奈津を、もう裏切れない。
琴美と会うことは、その裏切りの記憶が呼び覚まされることを意味していた。よくある男のエゴであることは承知の上で、僕は琴美と顔を合わせる機会を作らないようにしていたのだ。ただ琴美とは、「いい飲み友達」でしかなかった歴史の方が、むしろ長い。「会いたい」と言ってきているのに、むげに断ったりはぐらかしたりするには忍びなかった。
そのかわり、二人で会うのはこれっきりにしよう。たとえ今後は二度と、ホテルに行ってしまうようなことは起こりえないとしても、その方がいい。会ったときに、それとなくその意思を彼女に伝えよう。
そんな悲壮な決意とともに、クリスマスも近い今になってようやく、重い心持ちで席に臨んだだけに、琴美の「入籍」発言には拍子抜けさせられた。なんのことはない、彼女はちゃんと自分で答えを出しているじゃないか。琴美の人格はときどき大きくブレるけれど、時が経てばまた正しい軌道に戻っていくということなのだ。
「一応、新年早々ですが来月、式も挙げる予定です。披露宴の二次会には来てくださいね」
そう言う琴美の顔には、こうして僕と二人きりで会うのはこれが最後だ、という意志が明瞭に刻印されていた。
過ちを犯しさえしなければ、たとえ入籍しても、「いい飲み友達」のままでいられたかもしれない。彼女はまちがいなく、そうなれる人だった。そう思うと、途端にこらえがたい愛惜の念が湧き上がってくる。しかし、今さらどうしようもない。それに、広島に行ってしまったら、どっちみちもうほぼ会うこともないだろう。
「でも片瀬さんも、ほんとよかったですよね、デビューできて。その、1型でしたっけ? ……になっちゃったのはアンラッキーだったけど。今日もインスリン打ってきてるんですか?」
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