
「うん、さっき、駅のトイレで……。まあそのことも、むしろラッキーだったんじゃないかって今は思ってるけどね。注射なんて、もう一〇秒あれば打てる。気楽なもんだよ」
「あ、そうそう、片瀬さんの本、ごめんなさい、こないだ買ったんだけど、まだ読めてなくて……」
夏に「新世紀フィクション大賞」を受賞した僕のデビュー作『イジリ写真館』は、十一月の中旬に興栄社から刊行されたばかりだったが、幸いなことに売れ行きは好調で、すでに映画化の話も出ている。選考委員の一人は、「主人公が着々と追いつめられて逃げ場を失い、“闘う”ことを余儀なくされてゆく過程の描写が素晴らしい」と絶賛してくれていた。あんな不幸続きの悲惨な物語が、またとない幸運を自分にもたらしたことを思うと、いつも運命の不思議さにめまいを覚えそうになる。
しかしそのおかげでこの数ヶ月は、本になる受賞作の校正や、さっそく依頼されたコラムの執筆、選考委員の先生方や業界関係者が大勢集まる授賞式への出席、雑誌やラジオからの取材対応などで、なにかと慌ただしかった。そして今は、早くも受賞第一作に取りかかっている。闘病中、血のにじむような思いで書きついでいた小説を手直しして、本にすることになったのだ。
当面、勤めていた会社を辞めるつもりはないので、これまで以上に忙しい二足のワラジ生活だ。
「体の方、無理しないでくださいね。応援してますから!」
東京メトロ東西線の改札前で、琴美はいったん僕に向き直ってからそう言った。
「ありがとう、君もがんばって。もし彼がこの後もダメなところが直らなくて、いよいよがまんできないとなったら、離婚しちゃえばいいんだから。って、これから結婚するっていう人に言うことじゃないけどさ」
「いえ、私もそれと同じこと考えて、やっとふんぎりがついたんです。人生なんて、実は何度でもやり直せるんですよね」
そのとおり、人生は、やり直せる。過去にさかのぼることはできなくても、今いる地点から、もう一度足を踏み出し直すことはできるのだ。僕はそうやって生きてきたし、これからもそうして生きていくだろう。糖尿病という一生消えないスティグマを体に刻み込んでもなお、別の方向に向かって足を踏み出したように。
「それじゃ」
そう言って琴美は手を振り、改札を抜けて、階段を下りる人込みの中に紛れていった。僕はその姿を、最後まで目で追っていた。彼女は、一度も振り返らなかった。
僕はその場でひとつ大きく息をつくと、きびすを返し、有楽町線乗り場に向かって歩き出した。奈津が、そしてみけ松が待つ、懐かしく心安らぐわが家に帰るために。
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