
『シュガーな俺』本編中に、入院してインスリンによる治療を受けている喬一が、たまたま会社で上司とやりあってイライラしていたのが原因で、血糖値が思うように下がらなかった、というエピソードが出てきます。
あれはもちろん、実体験に基づいていますし、それ以外にも、似たような経験は無数にあります。糖尿病患者にとって、ストレスは大敵です。イライラしたり、長時間にわたって怒りを鎮められずにいたりすると、アドレナリンが分泌され、それがインスリンの効き目を阻害するのです。また、仮に何も食べていなかったとしても、怒っていると、筋肉の内部でブドウ糖が作られてしまうことがあります。
これは、理由のないことではありません。怒りというのはもともと、生き物としては、闘争本能と結びついています。闘うためには、脈拍を速め、血圧を上げなければならない。筋肉中でのグリコーゲンの分解も促進しなければならない。それがまさにアドレナリンの働きなのであり、怒りによって血糖値が上昇するのは、それが必要だと体が判断しているからにほかならないなのです。
しかし、文明社会に生きるわれわれとしては、たとえどれだけ腹が立ったとしても、まさか上司と殴り合いの喧嘩をするわけにはいきません。行き場のない怒りが、体の中でふつふつと煮えたぎり、血糖値ばかりが無駄に上昇していくわけです。糖尿病患者にとっては、迷惑きわまりない体の仕組みです。
ただ、そのおかげで、逆に助かったこともあります。
ある晩のことです。それぞれの職場から帰ってきた妻と僕は、疲れ切っていました。どちらも夕食を作る気持ちの余裕がなかったので、外食で済まそうということになりました。さいわい、住んでいるマンションのまわりには、いくらでも飲食店があります。
僕はさっそくインスリンを打ち、15分後くらいを目処に家を出ようと思っていました。店に着くまで5分、メニューを選んで注文し、料理が出てくるまで10分。そうなれば、食前30分前が原則の「速効型」インスリンにとっては、最適のタイミングですから。
ところが、そうして家を出る時間を待っている間に、妻と僕はささいなことから言い争いになってしまいました。『シュガーな俺』本編にもそういうシーンが出てきますが、やはり、おたがいに疲れていると、つまらないことを許しがたく感じてしまうものです。
しばらく激しくやりあっていた僕たちですが、途中から完全に膠着状態に陥りました。こうなると、どちらかが折れるまでケリがつきません。まあ、正直なところ、そのときは(と言うより、喧嘩になるときはたいてい)もっぱら僕が悪かったと思うのですが、意地になってしまうと、素直にそれを認めて自分から頭を下げることがなかなかできないわけです。
そうしている間に、時間はじりじりと過ぎていきました。「そろそろなにか食べないとヤバいな」という考えがときどき頭をよぎるのですが、喧嘩の最中に立ち上がって自分だけなにか食べ出すのもどうかと思って、そのままただ座っています。やがて、何がきっかけになったものか、2人はようやく、仲直りムードに移行していきました。
おたがいに「ごめんね」と言い合い、さて、気を取り直してごはんを食べに行こうか、と立ち上がったとき、時計を見たら、驚いたこと小1時間も経っていました。注射を打った時刻から計算すれば、ほぼ1時間。普通なら昏倒していてもいいくらいのタイミングなのに、その時点で僕の体には、低血糖の兆しさえありませんでした。
おそらく、喧嘩している間ずっと、僕の血糖値は相当高いところまで昇っていたのでしょう。恐ろしくて、とても血糖を測定する気持ちにはなれませんでした。だからせめて、この後はなごやかに食事を楽しもうと思い、僕たちは近所の中国料理店に連れ立って向かったのでした。
そんなわけで、日ごろ、なるべくカリカリしないように気をつけてはいるのですが、日々いろいろなことが起きる中、怒らずにいることというのは難しいものですよね。
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