
立花医師は素っ頓狂な声を上げて驚き、それならば仕事をしながらでも入院できる、と言った。
「糖尿病って、別に安静が必要な病気ではないんです。問題は食事なんですね。入院中、病院でカロリー計算して作った食事以外、カロリーのあるものはいっさい口に入れちゃいけないんです。それに片瀬さんの場合、毎食前に血糖値を測ってインスリンを打たなきゃならない。でもそれ以外の時間は、別に普通に活動していてもかまわないんですよ。もちろん、外出届はその都度出してもらうことになりますけどね」
そのとおりだとすれば、僕は昼食と夕食の前後のわずかな時間だけ会社から離れるだけで、ほぼ平常どおりに勤務できることになる。後半には「教育入院」のプログラムが始まるが、それも一日にせいぜい二時間程度だという。
少しだけ、気が楽になった。そう忙しい会社ではないが、突然、まるまる一ヶ月、穴を空けますとはやはり言い出しにくい。
「入院が一ヶ月よりも長引くということはありえません。一ヶ月で必ず退院させます。それは信用してください!」
心強いひとことだった。僕がこのひ弱な体で体当たりしてもびくともしなさそうな体型の立花医師がそう言って請け合うのだから、説得力満点だ。しかし彼が保証したのは、「退院」に関してだけだ。「一ヶ月で必ず治す」とは言っていない。その点が微妙に引っかかった。
「で、本当なら明日にでも即、入院していただきたいところなんですが……」
立花医師は、それまでのしかつめらしい面持ちをそこで急に崩して、きまりが悪そうに笑った。
「実はあさっての土曜日までベッドが埋まっちゃってるんですよね。ですから入院は来週の月曜からってことに……」
さっきまでの脅すような調子からはだいぶトーンダウンしているが、いずれにしても一方的に話が進められている点に変わりはない。僕は思わず、話に割って入った。
「あの……でしたら、できれば来週の木曜からってことにしていただけませんか? 実はですね、今日から妻が旅行に行ってまして、水曜まで帰って来ないんですよ。入院となるといろいろ相談したいこともありますので」
入院を先延ばしにしようとしてとっさにでっち上げた嘘でもなんでもない。事実、妻の奈津はまさに今朝、南米のペルーに向けて発ったところなのだ。マチュピチュの遺跡めぐり。いかにも奈津らしいセレクトだ。ケニアでライオン観察だとか、シベリア鉄道に乗ってウラジオストックからモスクワまで横断だとか、その手の「ワイルドな」旅行に行きたいときは、基本的にヨーロッパの都市好きで腰の重い僕を置いて、別の旅行仲間と連れ立って行ってしまうのだ。
「そうですかぁ……」
立花医師は、芝居がかった残念顔でそう言ったが、すぐに「そういうことなら」と僕の申し出を受け入れてくれた。
「ではその間の注意事項ですが、食事療法に関しては入院されてからみっちりお教えしますので、今、細かいことは言いません。ただ、くれぐれも食べ過ぎないように。腹八分目あたりを心がけてください。揚げ物などは極力避けて。甘い物は厳禁。夜食なんてもってのほかです。あと、タバコ吸われますか? それも今日限りやめてください。それと、水分はまめに補給すること。ただし、ジュースや牛乳はダメです。水かお茶ですね。コーヒー・紅茶なら、砂糖もミルクも入れなければOK」
訓示はことごとく、右から左に流れた。一刻も早く、一人になりたかった。一人になって、自分をだしぬけに襲ったこの運命について考えたかったのだ。
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