平山瑞穂
シュガーな俺



第6章:充実生活(1)

 人は意外と環境にすぐ慣れる。入院生活も四、五日続くと、ずっと前からそうして暮らしていたみたいに、特有のリズムが身についてくる。

 朝は六時過ぎに看護師の「おはようございます!」で強制的に叩き起こされる。起きたらすぐに体重と血圧を測り、洗顔や髭剃りを済ませておく。七時十五分くらいから血糖測定とインスリン注射。八時に朝食。それが済んだ頃に、立花医師が担当患者のところを回って簡単な検診を行なう。ほかの人はその後のんびりできるが、出勤がある僕はけっこう慌ただしい。歯を磨き、ロッカーにかけてあるスーツに着替えて「外出届」を書く頃には、もう出勤時間になっている。もっとも隣りのビルだから、エレベーターで降りてまた昇るだけだ。

 そして十一時十五分までは普通に会社で仕事をして、インスリン注射と昼食のためにいったん病室に戻ってくる。昼食後はまた外出届を書いて会社に行き、定時である午後五時半の少し前に「お先に失礼します」と言って職場を退出する。もちろん、六時からの夕食に備えた血糖測定と注射のためだ。

 僕の場合、インスリン注射は必ず食事とセットになっており、打つタイミングは食事が始まる三十分くらい前が最適とされている。そして注射を打った後は、食事が済むまでむやみに動き回ってはいけない。
 
 食べたものが消化されて血糖値が高まりはじめるのが、三十分後くらい。そしてインスリンは、体内に取り入れて三十分ほどしてから効きはじめ、一時間〜二時間後くらいにかけて効果がピークに達する。「食事の三十分前」に打つ決まりになっているのは、血糖値が高まるところを狙い撃ちするためなのだ。打つのが遅すぎると血糖値のピークに間に合わせることができず、逆に早すぎると、血糖値が上昇する前に必要以上に下げてしまうことになる。

 インスリンを使う治療の場合に侮れないのが、その状態だ。これは「低血糖」と呼ばれ、一般には貧血に似た症状を呈する。ひどい場合にはそのまま意識を失って昏倒、死に至る場合もあるという恐ろしい状態なのだ。注射後むやみに動き回るなと言われるのは、体を動かすことでエネルギーが消費されて血糖値が下がる現象と、インスリンによる効果が重なって、「低血糖」状態に陥ることが警戒されているからだ。

 もちろんこれは、インスリンだけでなく、「経口血糖降下薬」と総称される錠剤などを服用している患者の身にも起こりうることだ。糖尿病患者はアメ玉や氷砂糖を持ち歩いているといった話を聞いてずっと不思議に思っていたが、その謎がやっと解けた。甘いものが厳禁のはずの患者がなぜアメ玉を? と思っていたのだが、それは外出中不意に低血糖症状に襲われたときの用心のためなのだ。
 
 もっとも、そういう目的でなにか甘いものを携行するのだとしたら、アメ玉はあまり「ふさわしくない」と立花医師からは言われている。低血糖というのは不意に、急激に襲ってくるものなので、その時点で可及的速やかにカロリーを体内に取り入れる必要がある。アメ玉では、口の中で溶けるのに時間がかかって、間に合わない恐れがあるのだ。一番いいのは病院で処方するブドウ糖の錠剤だが、それがない場合はガムシロップや、甘みのあるジュースなどでもいい。

 ただ、僕はまだその低血糖とやらになったことがないので、今ひとつピンと来ない。ものの本には、そうなると「異常な行動や言動」を取るようになると書いてあるが、「異常」と言っても、どこからをそう見なすのか。自分で「これは異常だな」と判断できるものなのだろうか。その恐ろしさがわからないので、注射が済んでから配膳されるまでの三十分、ただじっとしていなければならないのが、どうしても無駄に思えてしまう。

 しかしそれ以外は、慣れてしまえばそう不自由も感じない入院生活だ。たとえば浴室の使用は本来、午後二時から五時の間の予約制で、その都度表に名前を書き込んでおかなければならないのだが、その時間帯、職場に通っている僕は、特別に配慮してもらって、夕食後に使っていいことになっていた。小説が書けないことは残念だが、そうとなれば、病室でのありあまる時間を極力有効に活用しない手はない。奈津に頼んでNHK「テレビフランス語会話」のテキストやら、前から腰を据えて読もうと思っていた洋書やらを持ってきてもらい、電子機器を使わずに座ってできることはなんでもやろうとした。おかげで、退屈を感じることはほとんどなかった。

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