平山瑞穂
シュガーな俺



第9章:教育入院開始(1)

 翌週の頭から、「教育入院」が始まった。糖尿病で入院と言うと、普通はこの「教育入院」を指す。僕の場合は特に症状が重かったので、それに先立つ調整期間が設けられていただけだ。

 糖尿病というのは生活習慣病なので、生活習慣そのものを改めなければ症状の改善は望めない。具体的に何をどう改めていけばいいのかについて「教育」を授かるのが、この入院の目的だ。二週間にわたって、午前と午後にひとコマ程度ずつ、それぞれ小一時間のレクチャーを受ける。病棟の中ほどにある「カンファレンス・ルーム」という小さな会議室みたいな部屋が教室だ。

 最も重視されているのは「栄養指導」、つまり退院後それぞれ自力でやっていかなければならない食事療法の実際についてだが、その合間合間に運動療法や薬物療法、糖尿病に関する検査方法や、日常生活における注意点などに関する講義も挟まり、内容は多岐にわたる。

 カリキュラム表を見て一番不思議に思ったのは「歯科衛生指導」だったが、講義を聞いてみてなるほどと思った。高血糖状態だとただでさえ毛細血管が切れやすくなっている上に、血液が慢性的に栄養過多状態であるため、歯槽膿漏などを起こしやすくなっているのだ。歯科衛生士のお姉さんが、口の中がグズグズに腐って手の施しようもなくなっている患者のおぞましい写真を見せて、「こうならないようにマメに歯を磨く習慣をつけてください」と諭すわけだ。

 「爪の切り方」の講釈まである。特に足の爪。「今日限り、足の爪はこのように平行に切るようにしてください」と言う。爪の先というのは、指の形に沿って彎曲した形に切るのが普通だが、糖尿病患者にとってそれは禁物である。深追いすると、指に微細な傷がつく恐れがある。そして高血糖だと、化膿しやすくなっている上に末端の神経障害を併発している可能性があるため、気がつかぬうちに傷が悪化して壊疽を起こしたり、最悪の場合には足の一部を切断したりしなければならなくなるからだ。
 
 その説明とともに、腐った足の写真などを見せられると、やはりかなり怖じ気づく。神経障害が悪化すると、「足の裏にまんじゅうの皮を張りつけたような感じ」がする、と言う。感覚が遠いのだ。多くの患者が、異口同音にそうした表現をしている。だから、微細なガラスの破片などで怪我をしていても、気づかずに放置してしまう場合がある。そこから化膿が始まるのだ。思わず、靴下を脱いで足の裏を触ってみずにいられなくなる。

 しかし、講義を聞いているうちに次第にわかってくることは、「足の壊疽」とか、「眼底出血」とか「歯槽膿漏」など、糖尿病の合併症として挙げられているさまざまな症状の多くは、相当長い期間、血糖値が高いまま放置していて初めて起こるものらしい、ということだ。

 「片瀬さんの場合は、発症からまだ期間が短いですから、現時点で神経障害を起こしている心配はまずありませんよ」

 立花医師も、そう太鼓判を押していた。

 それに冷静に考えてみれば、足だっていきなり腐るわけじゃない。そこに至るまでの過程があったはずだ。その間、一度も自分の足の状態をまともに顧みることがなかったのだとしたら、その神経が疑われる。唯一考えられるとしたら、「見なかったことにしていた」というパターンだ。僕自身もまた、あきらかな糖尿病の症状が出ているにもかかわらず、無理に原因をほかのことに置き換えようとしていた。直視しないでいるうちに手遅れになる。その極端なケースが、こうした患者たちなのではないか。

 実際、糖尿のせいで眼底出血を起こし、左目を失明するに至ったある患者の事例では、医師からの再三の警告にもかかわらず、長期にわたって食生活をまったく改めなかったことが原因とされている。ひとたび病院の門をくぐった以上、医師の忠告や指示に従うのは基本的には当然と僕は思っているが、実際にそれができる人は驚くほど少ないようなのだ。

 患者は基本的に、医師の言いつけを守れないものである------という基本認識のもとに、「教育入院」のプログラムは設定されている。何度か講義を受けている間に、僕はその印象を強くしていった。うるさすぎるほど、くどすぎるほど言ってちょうどいい。それでもまだ、足りないかもしれない。それは、共に講義を受けている患者たちを観察していれば、容易に想像できることだ。
 
 「教育入院」は、フロア単位で、同時期に入院した何人かの糖尿病患者をまとめて対象とする。僕のほかに三人の患者が、いわば「同期」として同じ内容の講義を受けていた。

 その中では僕が圧倒的最年少で、残り三名はいずれも六十歳前後の高齢者だ。一人は男性で、城所さん。骨と皮ばかりに痩せているから、おそらく相当悪化してから入院したのだろう。後の二人は女性だが、タイプはかなり違っている。芹沢さんはわりに品のいい物静かな感じだが、もう一方の吉成さんはやたらとおしゃべりな上、いまだ女としての「現役」意識が強いようだ。小柄ながら背中まで伸ばした黒髪を誇らしげになびかせていることからもそれはわかるし、僕を含めて男性の患者に折りあるごとに甘えた声で話しかける癖がある。

 「あのちっこいババァ、うるせえんだよ! ババァのくせに媚びるんじゃねえよ!」

 一度、海野さんがそう言って病室で口汚く罵っていたことがある。海野さんと言えども男性にはちがいないので、デイルームあたりで吉成さんになれなれしく声をかけられたのだろう。

 「話しかけてくんなってんだよう!」

 最後のそのひとことはそっくりそのまま海野さんに返してやりたかったが、実際、吉成さんはちょっと注意を要する人物で、甘い顔を見せるとつけあがって際限なくあつかましいふるまいに出るタイプと見受けられた。だから僕も、講義のとき以外は極力近寄らないようにしていた。

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