
「教育入院」は、「修了証書」の授与をもって正式に終わった。カンファレンス・ルームに招集をかけられた僕と三人の「同期」に、嘘くさい笑みを顔面いっぱいに張りつけた院長先生が、じきじきに賞状を手渡してゆく。最後の確認テストであからさまにズルをしていた城所さんも、脇道に迷い込むばかりでいたずらに講義を延長させていた吉成さんも、物静かすぎて存在感がなかった芹沢さんも、みんな一緒だ。
「あなたは当院における糖尿病教育入院の全課程を修められましたこれからの生活にぜひ役立ててください」という、句点も読点もない文言が印刷されている。ここで得た知識は、間違いなく「これからの生活に役立」つことだろう。少なくとも僕は。ほかの人のことは知らないが、自分については自信があった。
入れ替わりくらいに、奈津がやって来た。土曜日でも普段は仕事が入っているが、今日はさすがに空けておいてくれたのだ。
「おお、退院なんだ、よかったね!」
病床まわりを片づけている僕らを見て、鷺沢さんが笑顔で言った。もともと人のよさそうな雰囲気の人だ。その大きな声も、こんなときには好もしく聞こえる。
「いろいろとお世話になりました。ときどき来てるあの子、お孫さんですか? 可愛いですね」
奈津も僕の退院で心が浮き立っているのか、いつにもまして外交的になってサービストークをしている。しかし僕はなんとなく、海野さんの不気味な静けさが気になっていた。今朝になってから、妙に無口なのだ。日頃はなにかとちょっかいを出してくる彼が、丸めた背中をわざと僕に向けるようにしてベッドに引きこもっている。
「それじゃあ、海野さんも……僕、今日で退院ですので」
荷物をスーツケースといくつかの紙袋に全部収め、いよいよ病室を出ていく段になって、僕はわざわざ彼のベッドの前まで近づいて挨拶をした。
「ん? ああ……」
「いろいろお世話になりました」
「おう」
海野さんはそんな生返事をして力なくうなずいただけで、僕と目を合わせようとさえしなかった。
「どうしちゃったのかな、あれだけ騒々しい人だったのに……」
ナースセンターへ向かって廊下を歩きながらそう言うと、奈津が笑った。
「すねてるんじゃないの? 自分はまだ入院してなきゃならないのに、もう出ていっちゃうんだなあって思って」
人懐っこいということは、さみしがり屋でもあるということだろう。それに、考えてみれば、「迎えに来る妻がいる」という点もおもしろくなかったのかもしれない。僕は僕で、ふと気づけば、海野さんと離れることを一番さびしく感じていた。読書の邪魔をするうっとうしい人物、こんな機会でもなければ一生知り合うこともなかったであろうタイプの人間ではあったが、逆に言えば、ここを離れたが最後、二度と会うこともないのだろう。そう思うと、少しだけほろりと来そうになる。
でもそれもたぶん、退院というイベントに伴う一瞬の感傷に過ぎないのだろう。一ヶ月強にわたって寝泊まりしてきた病棟を離れることにさえ、一抹のさびしさを感じるのだから。
帰りがけに、担当看護師の大崎さんに声をかけた。奈津と相談の上、お礼として菓子折りを贈ることにして、奈津に買ってきてもらったのだが、大崎さんは受け取ろうとしなかった。
「受け取っちゃいけないんですよ、私たち」
都立病院だけに、贈収賄に当たるということなのか。やむなく包みは引っ込めて、深々とお辞儀だけして立ち去ったが、持ち帰る可能性を考慮して、お茶かなにかにしておけばよかったと思った。お菓子では、自宅で消費するのは難しい。少なくとも、僕はほとんど食べられない。
奈津の運転する車で自宅へと向かう間、車窓から差し込む光がやけに眩しかった。九月中旬、日射しはまだ十分に強い。
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