平山瑞穂
シュガーな俺



第12章:軋轢(1)

 退院後、酒を飲む機会は、週一回のペースにほぼ落ち着いた。それまでは週二回、三回と予定を入れることでさばいていた飲み友達との約束を、かなり厳密に週一回の枠に収めるようにしたわけだから、一人と飲む間隔は間遠になる。それでも、入院前のつきあいの大部分を存続することはできた。

 一番打者は、例によって東野亜梨沙だった。退院した翌週の金曜日に、さっそく約束を入れた。アルコールが入ればどうせ総カロリー量は大幅に超過してしまうのだが、一応それなりに気を遣って、野菜を含むつまみを多めに取ろうとしたり、揚げ物は控えめにしたりと、最初は慎重だった。ただ、野菜を摂るのが難しいのは居酒屋も同じだ。

 「野菜ですか? では、この魚貝のマリネ風サラダとか?」

 亜梨沙がメニューを指差す。

 「いや……たぶんこれ、魚貝部分の方が多いと思う。魚貝はタンパク質だからね。それに“マリネ風”じゃ油漬けだ」

 「あ、ではこれいかがです? サトイモの煮っころがし」

 「あー……イモ類は野菜じゃなくて炭水化物扱いなんだよね……」

 「だったら、豆腐とかじゃアウトなんでございましょうか?」

 「ごめん、豆腐は……タンパク質扱いなんだよ……。あ、これにしよう、野菜スティック。これなら間違いなく純度百%の野菜だ。料理としてはつまんないけど」

 これと似たようなやりとりを、この後僕はいろんな人との間で飽きるほど繰り返すことになる。そのうち僕はめんどうくさくなって、そもそも野菜を摂ろうとすること自体を放棄するようになった。もちろん、外で飲むときは、ということだ。そういうときは割り切って、「今日はOK」ということにしてしまうのだ。居酒屋で食事療法を貫徹しようなど土台無理な話だし、いろいろと制限を加えるのは、一緒に飲む相手にも悪い。

 酒だって、居酒屋のような場所にあって、言葉どおり「たしなむ程度」にするのは難しい。もともとその程度しか飲まない人間だったのならともかく、僕はほうっておけば店じまいまで無制限に飲みつづけかねないクチだったのだ。
 
 そして、酒に酔うことの一番恐ろしい点は、酔いが進むほどに判断基準そのものが更新されてゆく、ということなのだ。「今日は軽く一、二杯で!」と言っていたのが、いつのまにか終電コースになってしまったといった経験は、多くの人が共有していることだろう。「糖尿病患者なんだから、せいぜい三杯までにしておこう」というのは、シラフの状態で立てた誓いだ。実際に三杯目を飲み終える頃にはだいぶ酔いが回っていて、「もう一杯飲んだところでたいして違いはないだろう」「いや、もう一杯ぐらいいいんじゃないか」「最後にもう一杯だけ」というように、基準が着々と推移していく。

 最初の一杯は、以前の三倍くらいの時間をかけて大事に飲んだ。しかし、二杯目以降は、あきらかにペースが上がっていた。

「私は勝手に飲みますから、片瀬さんは、どうぞご自分のペースでごゆるりとお飲みくだされたく。私に合わせようとなさらずともオッケーでございすからね」

 亜梨沙がわざわざそう言って釘をさしてくれているにもかかわらず、最後の方はすでに入院前となんら変わらないペースになってしまっていた。野菜をできるだけたくさん摂ろうと努力したことなど、この瞬間にすべてパアだ。

 「なんだかんだと、けっこうお飲みあそばせられましたよね、今日も。ほんとに大丈夫であらせられる?」

 「大丈夫大丈夫!」

 「それ、根拠があっての仰せで? 酔っ払いって基本的にみなさんそうおっしゃいますが?」

 もちろん、「根拠」などない。酔っぱらうとそんなことはどうでもよくなってしまうのだ。ただ、毎週似たようなことを繰り返しているうちに、それはいつしか、実際ある「根拠」に支えられた行動となっていった。つまり、それでも数値は改善されていたのだ。

 退院してすぐの採血で九・五に急落したヘモグロビンA1cは、十月の検査では七・七に、十一月の検査では六・五にまで落ちた。グラフにすると、入院時点の十三・八からほぼ直線で急降下、という形になっている。健常者とほぼ同等と見なされる、糖尿病治療上の目標値「五・八以下」まで、あと一歩だ。コレステロールや中性脂肪も順調に落ち、逆に体重は四キロほど回復した。
 
 「すごいですよ、片瀬さん。ものすごく順調です。それもこれも、片瀬さんの頑張りのおかげでしょう!」

 立花医師が驚きもあらわにそう言った。

 「退院からこっち、月イチで診察に来ていただいてましたけど、これだけ順調なら、二ヶ月に一度で十分だと思いますよ。次回は一月ってことにしましょうか」

 そうなのだ、これくらいは飲んでいても、治療に悪影響を及ぼすには至っていないのだ。数値がすべてを物語っている。堂々としていていいのだ。そうして胸を張れるだけのことを、実際に僕はやっていたと思う。ある意味では、週に一度酒を飲む、というかけがえのない楽しみを死守するためにこそ、僕はその他の六日間、それこそ死にものぐるいで努力していたのだ。

 少しでも楽になるように、さまざまな工夫もした。

 たとえば、「献立・買い物メモ」の創案だ。前の晩に翌日の夕食の献立を考え、冷蔵庫の在庫をチェックして翌日買い足すべき食材をリストアップしておくことを毎日繰り返しているうちに、それ専用の書式を作ることが可能なのではないかと思いついたのだ。僕はパソコンに入っているエクセルを使って、自分が考える用途に最も適合した表を作成してみた。

 この表はA4サイズを四分割したもので、上段の買い物メモ部と下段の献立メモ部から構成される。まず下段の献立メモから説明すると、これは「(1)主菜、(2)副菜、(3)副菜2、(4)汁物」の四行に分かれている。栄養バランスに対する考慮から、「一汁三菜」の食事を原則としているからだ。各行について、まず「料理名」を書き込み、その隣に「1人分」のカロリー計算ができる欄(使用する食材は何か、目安量は何グラムか、それは何単位に当たるか)を設けてある。ただし、ここで計算するのは「表3」つまりタンパク質類についてだけだ。

 なぜかと言うと、まず、全料理について表1〜表6および調味料というすべての分類の内訳をいちいち計算していたら、キリがないからだ。原則はそれが必要なのだが、慣れてくると、いくつかの分類については、ことさらに重さやカロリー量を意識しなくてもほぼ問題がなくなる。たとえば主食は、原則として白米と決めておくかぎり、「この茶わんにこの程度で何単位」と覚えておけばそれで済む。表2の果物は、朝と晩で半々という配分にしているから、これもいちいち考えなくていい。

<前のページ

| | |

次のページ>


トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://trackback.nifty.com/cs/trackback/ebooks_trackback/1-024

コメント



コメントを書く

コメントフォーム
名前
メールアドレス
URL
内容

このページの先頭にもどる