平山瑞穂
シュガーな俺



第14章:不本意な再会(1)

 少し寝坊してしまった朝、前の晩におかずを仕込んでおいた弁当箱にご飯だけ詰め、それが冷めるのを待ちながら洗顔してヒゲを剃り、朝食用のウインナーを茹でながらスーツに着替え、バナナを切ってヨーグルトをかけながらトースターでパンを焼き……と慌ただしく準備していると、ほんの十数秒目を離した隙にパンが黒焦げになっている。

 「ああ、もう!」

 僕は無性に腹を立て、パンをもみくちゃに握りつぶし、引き裂いて、床に力任せに叩きつける。

 「どうしてそんなことでそんなにイライラするの? たかがパンでしょ? また新しいのを焼き直せばいいだけのことじゃない」

 奈津が泣きそうになりながら、それでもどこか遠慮した調子で僕をなだめる。深呼吸して気を取り直し、朝食も済ませて外に出ると、前を歩く通行人の動きが少しもたもたしているだけで後ろから蹴飛ばしたくなる。どうしてどいつもこいつも僕の邪魔をするのか、と叫びたくなる。

 仕事を終え、帰りがけにカバンと買い物の重い袋を提げたままマンションの郵便受けを開けると、朝は取りに行く暇がなかった朝刊の上に、無数の郵便物や宅配チラシが堆積している。片手でまとめて抜き取ると、チラシがぱらぱらと床に落ちる。

 お好みの女のコをご自宅まで派遣――こっちは妻帯者だバカ! マンション売りませんか? ――まだ買って二年だよボケ! 不用品回収のご用命はこちら――このチラシが「不用品」だっつーんだよチクショー! どいつもこいつも人んちの郵便受けに好き放題にゴミ入れていきやがって!

 僕は落ちたチラシをわしづかみにして丸めながら、くさくさした気分でエレベーターに向かう。そして無人の住戸に帰り着くと、まず今朝弁当用に炊いたご飯の残りをタッパーに移し、後で洗いやすくなるようにお釜に水を張っておく。次に缶詰を開けてみけ松の皿にエサを盛り、猫用トイレをきれいにする。それからやっとスーツを脱いで部屋着に着替え、顔と手を洗う。
 
 キッチンに戻って、買ってきたものを冷蔵庫に移し、シンクに積まれた朝食の残骸を洗おうとしたとき、カバンの中に使用済みの弁当箱が入れっぱなしになっていたことに気づき、慌てて自分の部屋に引き返すと、みけ松がにゃあにゃあ泣きながら足にまとわりついてくる。

 「何? エサもさっき盛ってあげたし、トイレもきれいにしてあげたじゃん!」

 それだけ言い捨てて先を急ごうとすると、気が立っている僕に呼応するかのように、いっそうかしましく鳴き立てながら、みけ松が行く手を阻む。

 「何なんだよ、うるさいな!」

 いらいらして怒鳴りつけると、みけ松も一瞬ひるむが、すぐにまた狂おしい鳴き声を上げはじめる。かまわず進もうとすると、抗議のつもりか、足の甲に噛みついてくる。

 「痛! やめろってんだよ!」

 力任せに足を振り上げると、みけ松はそれに弾き飛ばされるようにして本棚に叩きつけられ、一瞬、「信じられない」とでも言わんばかりの目で僕を睨むと、脱兎のごとく駆け去って行った。それを見て初めて僕はわれに返り、なんということをしてしまったのかと青ざめた。

 これじゃ、まるで虐待じゃないか。

 子のない夫婦である僕と奈津にとって、みけ松は子供みたいなものだ。それでいて教育の義務はないから、二人してそれこそ目の中に入れても痛くないほど甘やかし、溺愛していた。姿を見るたびに、「ほんとに可愛いよね」と奈津と言い交わすほどの典型的な「飼い主バカ」ぶりを発揮していたのだ。しかし、ここしばらくの自分を振り返ってみると、そのみけ松に対して、僕はあまりに冷淡だった気がする。

 みけ松がいつになくうるさく鳴くのも、きっと飼い主である僕の慢性的な不機嫌を敏感に感じ取っているからなのだろう。

 たまにみけ松が、夜中に元気を持て余して遊びたがり、にゃあにゃあとしきりに鳴いて僕たちをおびき寄せようとすることがある。こっちがすでにベッドに入って電気を落としていようがいまいが、おかまいなしだ。それでも以前なら、起き出してちょっとかまってやる余裕があった。最近は、「うるさい!」とひとこと叱りつけるだけだ。

 「ああ、もう、うるさいうるさいうるさい! 寝かせてくれよ!」

 ヒステリックにそう怒鳴ってしまうことさえある。

 「ほら、みけ松、喬ちゃん疲れてるみたいだから、こっちおいで」

 隣のベッドから、奈津が眠そうな声でとりなしたりする。まるで、子供につらく当たる横暴な父親から子供をかばう母親みたいに。
 
 子供を虐待する親なんて言語道断だ、と思っていた。どれほどのストレスを抱えているのか知らないが、罪のない、そして圧倒的に弱い存在である子供に当たり散らすなんて最低だ、と。でも気がつくと、今や僕にも、虐待をしてしまう親の気持ちがわかりはじめている。わかってはいけないその気持ちが。積極的にみけ松に危害を加えようとまでは思わないが、このままではいつ気持ちがそこに転じるかわかったものではない。

 僕は空恐ろしくなり、寝室に避難していたみけ松のところにそっと歩み寄った。

 「みけ松、ごめんね。僕が悪かった……。許してくれる?」

 みけ松はつい今しがたの一件をもう忘れてしまったのか、穏やかな、慕わしそうな目で僕を見つめながら、僕が頭を撫でるのに任せている。涙が出そうになった。どんな仕打ちを受けても、親のことはあくまで親と思って慕っている痛ましい子供の姿と、それはとてもよく似ていた。

 このままじゃまずい。

 それは自分でも重々自覚していたが、どうしようもなかった。いつもいらいらしていて気が短い僕に、奈津も常に聖母のようにやさしくできたわけでもなく、つまらないことが原因の夫婦喧嘩も絶えなかった。家の外にいる間も、それは同じだ。亜梨沙と飲んでいるとき、店の従業員がちょっと要領の悪い対応をしただけで食ってかかり、亜梨沙にばつの悪い思いをさせてしまったこともある。

 悪化しているという自覚があるなら、酒を飲むなどもってのほかだったのかもしれない。しかし僕は前以上に、「週に一度の飲酒」を必要としていた。日々とめどなく堆積されていくストレスを、それでかろうじて解消しているようなものだったのだ。当然、一度に飲む量も増えていた。飲むときは、もう、手心などいっさい加えていなかった。最初から、飲みたいだけ飲んだ。ここで一杯、二杯を控えたところで、どうせ事態など変わりはしないのだ、と思った。やけになりつつあった。

 それを言い訳にするつもりもないが、この頃、僕はまたしても、秋吉琴美と「過ち」を犯した。

<前のページ

| | |

次のページ>


トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://trackback.nifty.com/cs/trackback/ebooks_trackback/1-027

コメント



コメントを書く

コメントフォーム
名前
メールアドレス
URL
内容

このページの先頭にもどる