平山瑞穂
シュガーな俺



第17章:天国と地獄(2)

 「ねえ、今日はもう、帰られた方がよくなくないですか?」

 一曲終わったところで、亜梨沙が僕の手を引いて踊りの波(というより、塊)から離れ、背伸びして僕に耳打ちした。

 「奥さんにまだ知らせてないでしょ? 早く言っておあげになっては。そして夫婦猫いらず、じゃなくて水入らずで祝いの宴を開いて杯をお交わしになるのがよろしいかと」

 「え、でも……」

 「私のことはどうぞお構いにならずに。先立つ不幸をお許しください……って、逆か」

 たしかに、最終選考の件は、本当なら誰よりも先に奈津に知らせたいニュースだった。僕はまだ前夜からの仲たがいの件が気にかかっていたが、亜梨沙の粋なはからいを無にするわけにはいかなかった。僕は彼女の両手を握ってブンブンと振りながら、これでお開きとさせてもらうことにした。

 ただ亜梨沙は、僕がまさに今日、「1型に遷移」の宣告を受けてもいることは知らない。奈津には、それも伝えなければならないのだ。さて、どういう順番で、どう伝えたらいいのか。

 帰る道すがら、僕はずっとそのことを考えつづけていた。ぐるぐる回る山手線の中で吊り革につかまり、窓に映った自分の顔を見つめながら、頭の中でいろいろな考えをぐるぐると回らせていた。

 「悪い方の知らせ」について思いを巡らすと、あらためて、胸に粘土でも詰め込まれたみたいな重苦しい気分になった。それを、「いい方の知らせ」が打ち消そうとする。悲観と楽観の間をめまぐるしく行き来しながら、僕はいつしか、少しずつ気持ちを整理しつつあった。

 考えてみよう。1型になってしまったことは、本当にそこまで憂えるべき事態なのだろうか。

 たしかに、食事のたびごとにいちいち注射を打たなければならないことは、たいへんな負担だ。食事開始の三十分前というタイミングを測ることも、常に低血糖症状を心配していなければならないことも、今後一生ついて回る重荷のようなものだ。でも逆に言えばそれは、インスリンを打ってさえいれば血糖を適正にコントロールできる、ということでもある。
 
 厳密にカロリー計算をして食事を作り、適宜に運動をしながら、基本的には完治することのない衰弱した膵臓を死ぬまでいたわりつづけなければならない2型糖尿病の生活だって、十分に負担だった。「弱っている」膵臓の状態は、無理をかければすぐに「悪化」する。ちょっと外食がかさんでしまった後、血液と尿の検査を受けるたびに、数値が悪くなっていはしまいかとびくびくするのも、そういう形で膵臓をいわば人質に取られているからだ。

 それにひきかえ、僕の膵臓はすでに「死んで」いる。言い換えれば、これ以上、よくも悪くもならない。「悪化」するかどうか気を揉む必要は、もうないのだ。どうつついたって、それはもう自力でインスリンを出すことができない。だから、黙っていても医師が、生命を維持する薬剤としてのインスリンを処方してくれる。それはとりもなおさず、残存している膵臓の機能を維持しようと奮起しつづける苦役からの解放を意味する。そうも言えるのではないか。

 だからと言って、もういっさい食事制限をしなくてもいいのだ、ということではもちろんない。投与したインスリンの処理能力を超える量を食べれば、結局血糖値は上がってしまう。仮に処方を無視して多めにインスリンを打つとしても、血糖値こそ適正な水準で抑えられるかもしれないが、いずれ肝臓など別の臓器に負担がかかって、結局は成人病の黒星をひとつふたつ増やすだけだろう。
 
 ただ、「膵臓がこれ以上悪くなるかどうかを気にかける必要がない」という点は、気持ちの上での負担を大きく軽減してくれるように思えた。要は、注射を打てばいいだけのことだろう。そう考えると、未来永劫世界が暗雲で覆われてしまったみたいに落胆していた自分が、バカみたいに思えてくる。

 たいしたことじゃないじゃないか。車がガソリンスタンドで給油しなければならないように、僕はインスリンを補給しなければならない。それだけのことだ。

 マンションの前に帰り着くまでには、僕の考えはそこまでまとまっていた。最終選考に残ったという朗報がなければ、こんなにやすやすと気持ちに整理をつけることはたぶんできなかっただろうが、一方にその支えがあった。だから僕は、落ち着いた気持ちで玄関先に立つことができた。

 まずは、「いい方のニュース」から伝えよう。

 「嘘……ほんとに?」

 奈津は目を丸くして驚き、僕が靴を脱ぐ間も惜しんで駆け寄ってきて、その場で跳び上がりながら僕の手を取った。 「すごいすごい! やったね! よかったね、よかったね!」

 朝方の冷たい態度はどこへやら、早くも涙ぐんでいる。なんと言っても、僕が辿ってきた長い道のりを誰よりも知り尽くしているのは、ほかならぬ奈津なのだ。恋人時代から、彼女はずっと、作家を目指す僕を見守りつづけ、支えつづけてきてくれた。僕がこれまでに書いた何十篇にも及ぶ作品にも、残らず目を通してくれている。

<前のページ

| | |

次のページ>


トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://trackback.nifty.com/cs/trackback/ebooks_trackback/1-034

コメント



コメントを書く

コメントフォーム
名前
メールアドレス
URL
内容

このページの先頭にもどる