岡山県出身。
1670年(寛文10年)初代岡山藩主池田光政公、領民子弟の学問所として、閑谷黌(しずたにこう)創建。以来340余年。現存する日本最古の学校に、1939年(昭和14年)入学して漢学を学び易経を知る。
1944年(昭和19年)同校を卒業、神奈川県下の軍需工場に就職。
1945年(昭和20年)4月横浜大空襲にて被災。同月25日兵役に服し広島部隊に属す。同年8月6日広島に原爆投下、爆心地より1.8kmの地で被爆するも身体に異常なし。同年同月15日敗戦、10月復員す。
直ちに上京の志あれど知辺なく、止むなく郷里にて雑務に努め糊口を凌ぐ。数年の後、縁の定める処に従い、京都に移住。
営業上の必要性と先輩の経験談より、昔、学習した易経を基礎に命・卜・相の易占研究を始める。学生時代の漢学恩師、女子大教授の有名な易学研究家の勉強会、易占研究塾等に足を運び易に関する知識を蓄積する。
筆耕に関しては学生時代、書道の師に基礎教育を受け、以来流派に所属する事なく我流ながら自分の個性を磨き形から型に仕上げる研究に努め今日に到っている。
易学と筆耕を生涯の研究課題とし社会に貢献したいと云う願いを持った頃、たまたま、知人の紹介を得て、易学の大家であり、書道家でもある、東洋易学学会学長・日本表札相学協会家元の今は亡き、初代吉田龍永先生の直接指導の栄に浴くし、研鑽を重ね、学会最高位の易学士と表札書家の免許を戴き今日を迎えた。
“念ずれば花ひらく”
坂村真民先生の詩のように、上京を念じて60年。
大正最後の生まれであるので、余命幾許(いくばく)も無いが生かされている悦びを、九星氣學一スジに、天の气、地の気、人の氣の三才合一に努め、宿命・運命・知命そして立命へと人の命運は天命であることを確信し、三才観伝承學を起し易の本旨である、占筮(せんぜい)は勿論、義理學をお伝えしたいと思っております。(義理學とは宇宙の根本原理と人間の性(さが)・本質を研究する学問)
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