ドラマ『太王四神記』で、「チュシン」の王が再来した、と描かれる広開土大王タムドク。
これは「チュシン」の王が再来したというのは、韓国人なら誰もが持っている理想的なリーダー――その資格を兼ね備えた人物――が現れたということを意味している。
そんなタムドクはカリスマ性を感じさせる王の資質を持っていながら、人間としても周囲の人々から愛される人物だった。
彼はその優れた才能と人格、高い品格によって、領土を拡張し、国家経済のみならず政治の安定を成し遂げた稀有な人物であり、高句麗の王家出身だという事実もひとつの重要な要素である。
そこで簡単に、高句麗初代の東明聖王から第十九代の広開土大王までの歴史を、主要な王の業績をあげながら説明していこう。
高句麗の始祖チュモンは韓国では知らない人がいないくらい有名な偉人で、彼に関する物語は高句麗の建国神話として小学校低学年の子どもでも知っているほどの有名人である。高句麗の建国以前最も強盛な国は夫余だったが、北夫余出身のチュモンは自分の仲間たちとともに南下し、そこの部族長と連合して、「ゾルボン(卒本)」というところに高句麗を建国した。その過程で「ゾルボンブヨ(卒本夫余)」の王の娘だった召西奴に助けられ、彼女と結婚することになったと伝えられている。
その後、チュモンは「ビリュ(沸流)」国)を併合し、高句麗の基礎を築いた。
しかし、統合といってもほとんどの自治権を認めていたので、これはまさに五部族連盟国家へ続く原初的な形だったといえるだろう。のちに、この部族連盟の部族長らが貴族化し、王権と対立するようになり、その後、高句麗の王室は中央集権と王権安定のために国内の勢力争いを続けてきたのだ。
ドラマ『太王四神記』でも、ヨン・ホゲをはじめとする貴族や部族長らの権力と、タムドクをはじめとする王権との葛藤が極めてリアルに表現されている。貴族と王族との争いは、実は建国の父チュモンの時代まで遡ることができるのだ。
チュモンは、高句麗の建国後も周辺の諸国を征服し、古朝鮮の故地を回復していった。けれど、彼の生前に、漢に占領されていた領土を全部奪い返すことはできなかったのだ。二代のユリ(瑠璃)王は、首都をゾルボンから国内城に移して、周辺の小国を併合していった。
本格的に高句麗が古代国家の体系を備えたのは、一般的に六代の太祖王の時期と見られてる。彼は漢が設置したヒョンド(玄菟)郡を追い出し、各方面に領土を拡張し、更に九代の故国川王は、国内の統治体制を整備し五部の行政区域を置いた。彼は特に父子相続制を確立して、王権の強化に尽力したと言われている。
続いて漢の楽浪郡と帯方郡を征服して完全に古朝鮮の故地を回復したのは、十五代美川王の時である。けれどこの時期から鮮卑族の慕容氏が創った燕の勢力が強まり、燕との戦いが激しくなり、高句麗にとってその存在は大きな脅威となっていった。
さらに、ゴクッウォン(故国原)王の時代には、南の百済が膨張政策をとって高句麗への攻撃を始めた。南北の敵から圧迫されたゴクッウォン王は、消極的に対処するしかなかったが、それをきっかけに燕は大規模な攻撃を仕掛けてきた。燕の戦術に巻き込まれた高句麗軍は退却してしまったが、逃げ遅れた太后や王后をはじめ数多くの人々が捕虜となって燕まで連れ去られた。
また、当時の高句麗にとって脅威は燕だけではなかった。中国の西から前秦が勃興してから、燕の脅威が弱まったところで南の百済が北進政策を行い、もう一つの脅威となっていたのだ。
ゴクッウォン(故国原)王は百済に先制攻撃を仕掛けたのだが、戦闘中、矢に打たれその傷が原因で死亡した。この時から高句麗と百済との関係は極めて悪くなり、高句麗人にとって百済は仇となった。
ゴクッウォン王の死後、王位を継承したのは長男であるソスリム(小獣林)王だった。彼は戦わずして高度な外交政策を展開させ、百済を孤立させる戦略を採りつつ、南北朝時代だった中国の政治的な状況を上手く利用することで、北からの脅威を取り除いていった。 その一方で、仏教の公認、太学の設置、律令の実施などを通して国家体制を整備し、高句麗の政治的な安定基盤を築いた。しかし病に冒され在位十三年目にこの世を去ったのだ。
ソスリム王は息子がいなかったので、彼の後を継いだのは、弟のゴクッヤン(故国襄)王だった。その後のヤン(襄)王は在位期間が九年だけだったので、特に大きな業績は見られなかった。しかし、前秦によって滅ぼされた燕が再建され、後燕として登場し、ゴクッウォン王の時と同じく、彼の時代も南北から攻撃をうける危険に直面していた。ヤン(襄)王は後燕に対して強硬策をとって先制攻撃をしたものの、後燕の反撃も続き、お互いに進退を繰り返していった。また、南の百済からの侵攻の危険を防ぐために、マルカル族を利用し、百済と戦わせたり先に先攻したりしたが、重い病にかかり結局病床から起き上がれなかったと伝えられている。