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高句麗の歴史

広開土大王の国家戦略

太王の諡号「国岡上広開土境平安好太王」の中には、領土を広げた王という意味が強く表れている。これを略して「広開土大王」と呼ぶのも、彼の業績の中で最も注目されるものが「対外政策」と「征服事業」だからであろう。

太王の「対外政策」は、地域によって多様に展開されていったが、特に「西方」、「南方」、「東北方」にわけて解説していこう。

「西方」は中国と隣接する地域で、中国は「五胡十六国時代」と呼ばれた分裂と混乱の時期が三百年近く続いたので、太王はこのような状況を利用して、適切な「外交政策」と「征服事業」を行っていった。
「三国史記」と広開土王陵碑の碑文に書いてある「征伐・征服戦争」は、タムドク在位一年の「契丹征伐」、永楽五年の「碑麗(契丹と推定される)征伐」、永楽十七年の「後燕征伐」の三回であり、ドラマ『太王四神記』では、在位一年の「契丹征伐」のことが描かれている。

「南方」の場合は、高句麗にとって歴史的に仇となっていた百済征伐が中心となっている。
また新羅の要請によって、新羅を攻めてきた倭軍を追い出すための出征記事も伝えられている。倭の新羅攻撃は、高句麗を攻撃するために百済が倭と連合して行った作戦だったが、百済の計画は失敗に終わった。ドラマ『太王四神記』でも、百済征伐を描いているが、それは在位一年の「カンミ(関彌)城」との戦いを指している。

 最後は「東北方」だが、その対象は「夫余」であり、一世紀末から始まった夫余併合戦争は五世紀まで続き、ようやく高句麗の勝利に終わったのだ。その長い戦争を終結させた張本人はやはり太王だった。

 このように、四方へ領土を拡大した太王の「征服事業」によって、五世紀に入ると高句麗は東アジアの主導的な位置を占めるようになる。
しかも、太王の息子の長寿王の時代になると、高句麗は最大の領土を確保し、以後二百年間続く太平時代を迎えることになった。その基盤を完成させたのは太王であり、彼こそ高句麗の歴史で最高の帝王として遜色のない人物であるといえよう。